初代内閣総理大臣の伊藤博文は無欲で柔軟な人柄から明治天皇の信頼を得、日本の立憲制度を誕生させたが、そのあとを襲った第2代の薩摩の雄、黒田清隆は、特に北海道の開拓と地の守りに献身した功がある。
しかし、この両者ともに「玉にキズ」の持ち主で、伊藤が無類のオンナ好きだったのに対し、黒田のほうは明治政界第一の大酒飲み、いや酒乱として轟いていたのだった。稀代の好色ぶりと酒乱が、堂々、政界トップの座に座ることが容認されたことは、なんとも時代の変遷、寛容さが偲ばれるところではある。まさに隔世の感がある。
黒田の酒乱ぶりを明らかにする前に、どんな人物だったか、まず業績を辿っておく。
黒田は天保11年(1840)、最下層の下級武士の子として、現在の鹿児島県に生まれている。当時の薩摩藩には、地域ごとに子供の教育を託す「郷中教育」という制度があり、そこで西郷隆盛の薫陶を受けたことで、後の人生はほぼ決まることになる。西郷の命により、長州へ赴き「薩長連合」に奔走、西郷と桂小五郎(木戸孝允)の会談を実現させるなどの力量を発揮、薩摩のみならず長州でも「黒田あり」が広まったのだった。
明治維新後の1870年、西郷や大久保利通の推挙で開拓使次官のポストを得、ここでロシアとの紛争が絶えず、かつ開拓にもカネのかかる樺太(からふと)を放棄すべしとの意見書を提出、これが採用されて「樺太千島交換条約」を締結してみせた。これを機に黒田は北海道の開拓事業に邁進することになる。陸軍中将に任官され参議を務める一方、屯田兵の導入、米国式農業の採用など柔軟な発想を展開させていったのである。米国からクラーク博士を迎えたのも、この頃だった。
しかし、10年計画だった開拓事業は巨費が投じられたものの赤字続き、折からのインフレによる財政悪化も手伝って、計画満期をもって事業の終了が打ち出された。
ここで、開拓への情熱やみ難い黒田は、一計を案じて開拓の継続を策した。企業を立ち上げ、官有物を安価に払い下げることで利益を得、これを事業の継続資金としようとしたのだった。のちに、これが「開拓使官有物払い下げ事件」として喧伝され、これを機に大隈重信が反発、政府弾劾の挙に出た。しかし、逆に大隈のほうが罷免されてしまうなど混乱が起き、政変を呼ぶことになった。黒田は失脚同然ながら、薩摩閥では重鎮だったことから開拓長官を辞したあと、内閣顧問としてとどまることができた。
「余いやしくも陸軍中将兼参議の職にあるからには、死は少しも恐れざる也。新聞記者が筆を以て論ずる位の事は、屁の屁とも思わざる」の言葉(「東京日日新聞」明治14年9月6日付)は「払い下げ事件」を醜聞として扱った新聞に対し「おまえらにナニが分かるか。オレは私利私欲でなく、開拓の必要性から信念を持ってやったことだ。職も命も惜しむものではない」との心意気が伝わる一方、自ら信じたことには一歩も引かぬ“頑固もの”黒田の「胆力」も、また浮かび上がるということである。
さて、政変ののち、伊藤博文内閣は諸外国との不平等条約の改正に譲歩が目立ったことで、政権の主流派である長州閥に対して薩摩閥が巻き返し、伊藤は退陣を余儀なくされた。ここに、重鎮ながら内閣顧問として、無聊を慰めていた黒田に第2代内閣総理大臣のお鉢が回ってきたということだった。
ところが、黒田の政権運営はうまく行かなかった。伊藤内閣が躓いた「条約改定」に反政府運動のリーダーの大隈重信ら時の実力者をズラリ並べた「元勲網羅内閣」で乗り出したが、結局は閣内の意思統一ができず、「条約改正」交渉も中断を余儀なくされ、黒田内閣はわずか1年余で総辞職を余儀なくされたのだった。
■黒田清隆の略歴
天保11年(1840)11月9日鹿児島生まれ。薩長連合に奔走、箱館戦争に参謀として参加。屯田兵創設、開拓長官を経て、札幌農学校開設。総理就任時、47歳。明治13年(1900)8月23日、脳出血で死去。享年59
総理大臣歴:第2代1888年4月30日~1889年10月25日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。