こうした短命内閣の背景は、大きく三つの要因が挙げられる。
一つは、「隈板内閣」としての“二枚看板”への期待の声があったものの、両雄並び立たずで強力な推進力とはならなかった点だ。
二つは、大隈は野党政治家としては、「在野の雄」との声があったように一級の人物だったが、宰相としては脇の甘さを露呈した点だった。大隈への当時のアダ名は「ザル碁」、色々と手数は打つが“水漏れ”が目立ったということだった。
そして、三つ目が、その性格にあった。とにかく頑固で短気、先の「ザル碁」の一方で「瞬間湯沸かし器」のアダ名もあったのだ。このことについては、演説の特徴である「‥‥であるんである」調全開で、自ら次のように豪語しているだけにハンパではない。
いわく、
「私は、命令を聞く男ではない。頑固であるんである。これは誠に善い性質ではない。けれども、どうも七十になっても、この性質を止めることはできないのである。死に至るまで頑固剛情で生き終わるつもりであるんである」
若き日、大隈家の食客(しょっかく)となり、後年、関西財界のリーダーとなる五代友厚(ごだいともあつ)は、大隈が総理の座に就いたあと、あえて師たる大隈に次のような短所の“克服”を要望したのだった。五代友厚はNHK朝ドラ「あさが来た」でディーン・フジオカが好演、記憶に残る読者もいるだろう。五代はかつて世話になった大隈に平伏しつつも、次のような箴言を口にした。
「人の愚説愚論に、一応の耳は傾けてみるべきである。自分より地位が下の者との意見が五十歩百歩のときは、相手をほめてその意見を採用すべきである。怒気怒声を発するのは、徳のなさを知られ、得することは一つもない。物事の決断は、あせってはいけない。一呼吸、置いてから決すべし。相手を嫌いだと突っぱねれば、相手も距離を取ってくる。ために、自分から心を開けば人は拠って来、人脈形成につながるものとなる」
第一次内閣を4カ月で投げ出さざるを得なかった大隈だったが、その反骨精神をのちに早稲田大学となる東京専門学校の運営に注ぐことになる。しかし、学校運営は順風とはいかなかった。なにしろ、入学金、月額授業料は各1円でスタートしたものの、学生と教師も思惑どおり集まらずの経営難であった。ちなみに、当時の第一級花街だった新橋、柳橋の芸妓の1時間の花代も1円だった。
また、政府による「此の学校を目して謀叛人養成所となし」などの“悪宣伝”に加え、スパイを学内に潜入させるなどの妨害も多々あったから、いよいよ経営難に拍車がかかったのだった。
しかし、大隈はめげることなく、明治40(1907)年4月、早稲田大学と名を改めて総長に就任。その就任演説で、「本校に対する毀誉褒貶を、自己一身への毀誉褒貶よりも、一層、重く感じていた」と口元をぎゅっと結び、「学問の独立」への尽きぬ情熱を明らかにしたのであった。
■大隈重信の略歴
天保9年(1838)3月11日佐賀県城下の生まれ。立憲改進党結成、東京専門学校(早稲田大学の前身)を経て、伊藤、黒田、松方内閣で外相。憲政党結成後、60歳で外相兼務の第一次大隈内閣を組織。76歳で第二次内閣組織。大正11年(1922)1月10日、83歳で死去。国民葬。
総理大臣歴:第8代1898年6月30日~1898年11月8日、第17代1914年4月16日~1916年10月9日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。