一方、この反骨の政治家は、政治以外のエピソードも豊富だった。
記録に残る最古の始球式でボールを投げたのが、じつは大隈だった。明治41(1908)年、アメリカ大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の親善試合でのことだった。
振りかぶった大隈の投球はストライクゾーンから大きく外れたボール球。「総長に恥をかかせてはいけない」と早稲田の一番打者が忖度の空振りをしてストライクに。以降、始球式での一番打者はどんな球でも敬意を表して、空振りをすることになったものだ。
また、日本人で初めてマスクメロンを食べたのは大隈だったともっぱらだが、「これは旨い」で、皆に食べさせたいと自宅庭に種を蒔いて栽培をしたとされている。
あるいは、演説大好き男だったことから、列車で回った初の選挙運動では、駅で止まるごとに窓を開けて一席ブツという“手法”を用い、以後の選挙運動への先鞭(せんべん)をつけている。ちなみに、明治5(1872)年9月開業の横浜-品川間の鉄道開業は、大隈が参議時代に力を入れてのそれだった。
エピソードはまだ多くあるが、特筆すべきはマレに見る「無類の恐妻家」だったということだろう。この時代、男がそれなりの人物になれば、芸者と遊ぶ、今で言う愛人の妾を持つなど当たり前だったが、大隈はそれどころではなかったのだった。
妻の綾子は、旗本・三枝家の出身でなかなかの女丈夫であった。結婚した頃の大隈の住まいはまだ早稲田に移る前で東京・築地にあった。のちに関西財界の大立者となる五代友厚(ごだいともあつ)らの食客がいつもゴロゴロしていたことから、「築地梁山泊」とも呼ばれていたのだった。綾子はこれら食客の面倒を見、食客に慕われる夫を「うちの番頭」と呼びつつ、一方で家計の切り盛りも巧みにこなした。要は、こうした妻に頭が上がらず、オンナ遊びどころではなく「無類の恐妻家」に化していったということのようであった。
大正11(1922)年1月10日、83歳で死去した。生前、「人間は125歳までは生きられるようにできている」と口にしていたが、それはかなわなかった。17日の東京・日比谷公園での国民葬には、じつに20万人の国民の参列があった。最期まで「在野の雄」であった。
■大隈重信の略歴
天保9年(1838)3月11日佐賀県城下の生まれ。立憲改進党結成、東京専門学校(早稲田大学の前身)を経て、伊藤、黒田、松方内閣で外相。憲政党結成後、60歳で外相兼務の第一次大隈内閣を組織。76歳で第二次内閣組織。大正11年(1922)1月10日、83歳で死去。国民葬。
総理大臣歴:第8代1898年6月30日~1898年11月8日第17代1914年4月16日~1916年10月9日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。