しかし、財政面での功績とは裏腹に、内閣を束ねたあとの松方はドジの連続であった。政治的リーダーシップが、著しく欠けていたことによる。ために、常に政局の混乱を招いていた。
松方のリーダーシップ不足は、第1次内閣を組織するときにして、不安視させられていた。これを心配した伊藤博文などは、腹心の陸奥宗光を新設した内閣の政務部に送り込み、施政のカジ取りをカバーした。松方もこれは助かるで、内閣に伊藤など元勲がにらみを利かすのをよしとし、舞台裏からの指示で動くとのことから「緞帳(どんちょう)内閣」との揶揄もあった。また、その第1次内閣で政局混乱となる初の衆議院解散を打ったが、政府側が民意もヘチマもない選挙干渉を起こして社会も騒然、各地で衝突があって死傷者数百人を出したうえ、選挙後の議会で糾弾され、松方内閣は総辞職を余儀なくされたのだった。
さらに、第2次内閣では遼東半島割譲などで対立した経緯のあった進歩党の実質的党首・大隈重信を外相に迎えた。しかし、当初は「松隈内閣」とマズマズの評判だったものの間もなく進歩党と松方以外の薩摩派閣僚の間で摩擦が生じ、ついには大隈から辞表を叩きつけられるなど、内閣は終始ガタガタだった。ついには、野党から内閣不信任案を突きつけられるや、松方はこれ幸いと内閣総辞職、無責任さと無力ぶりが露わになったのだった。アタマに来た外相辞任の大隈曰く、「(松方は)自宅の裏庭で桑畑でも耕しているのが一番似合う」と酷評したものだった。
一方、こうした松方ではあったが、人柄の篤実さ、親しみやすさは多く知られていた。私生活も酒はほどほど、規則正しい生活で、質素勤勉、人を疑うこともよしとしなかった。また、松方は青年時代から書道に親しんだことから、書に関しては炯眼(けいがん)だった。西郷隆盛と大山巌が中国の名書家の偽書を松方に売りつけ、「カネはいらないから鰻丼をごちそうせい」と迫ったが、見事、この偽書を見破って追い払ったというエピソードもある。
そんな几帳面な生活での唯一の楽しみは“子づくり”で、こちらは大いに精を出した。某日、明治天皇から子供の数を下問された松方、答えて曰く「正確な数を掌握しておりませんので、後日、調査のうえご報告申し上げます」だった。“実数”は正妻・満佐子と愛妾合わせて15男7女説と13男6女説があるが、多すぎて収拾がつかず、晩年には子を孫として届け出もしていたのである。
こうした子孫の中に、のちに国立西洋美術館(東京・上野)のもととなる「松方コレクション」を収集して知られた松方幸次郎、正真正銘の孫として、かつての米国ライシャワー駐日大使夫人・ハルがいる。
■松方正義の略歴
天保6年(1835)3月23日鹿児島県城下の生まれ。伊藤、黒田内閣で蔵相。56歳で、蔵相兼務の第一次松方内閣を組織。自らの内閣総辞職後の第2次山県内閣でも蔵相を務める。大正13年(1924)7月2日、89歳で死去。国葬。
総理大臣歴:第4代1891年5月6日~1892年8月8日、第6代1896年9月18日~1898年1月12日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。