「およそ世上の事物、その政事たると否とを問わず、非難すべきこともこれあれば、賛成すべきものもこれあるべし」
「およそ──」の言葉は、わが国初の「平民宰相」と謳われ、一方でわが国初の本格的「政党内閣」を率いた原敬の政治姿勢が如実に表れている。これは大正10(1921)年10月の立憲政友会の東海大会での演説だが、「──これあるべし」と区切ったあと、原は次のように続けたものだった。
「われわれは、いずれの時期においても反対者の絶滅せんことを希望するにあらず。むしろ、その言論を他山の石としてよろこんでこれを迎えんと欲するところなれども、なんらの政策もなく、ひたすら反対に没頭するがごときは、いわゆるいたずらに反対せんがために反対する者とみなさざるを得ずして、其の国家を憂うる者のくみするところにあらざるべしと信ず」
すなわち、ここで原は、時に言論を封殺するそれまでの有無を言わせぬ藩閥政治を否定、反対者の意見も無視してはならないと力説したのだった。また、いたずらに反対のための反対ばかりでは国家は成り立たないとし、民主的政治の不可避を強調している。時代の変化を先取りする“嗅覚”は、並のものではなかったということだった。
原の総理大臣としての政治力、すなわち強力なリーダーシップは、今日にして歴代総理の中でも間違いなくトップクラスに入る。頭が切れ、弁が立ち交渉能力も抜群。さらに、国務も熟知していたことから、怖いものなし。なるほど自信に満ちていた。また、気骨、精神の剛毅ぶりも並のものではなかった。
加えて、戦略の巧妙さも併せ持ち、時に藩閥、政敵との妥協も辞さずの徹底した「現実主義者」でもあった。選挙でカネが要るとなれば、あちこちから集めることに抵抗感を持たず、集めたカネは気前よくバラ撒いた。かと言って、自らの生活は質素で、集めたカネをプールすることはなく、政党政治の命脈のためにつぎ込んだということであった。このあたりは、田中角栄元総理大臣における「政治とカネ」の扱い方に似ていたと言えなくもない。
■原敬の略歴
安政3(1856)年2月9日、陸中国(岩手県)盛岡城下の生まれ。生家は旧南部藩家老職。分家独立して、平民に。第四次伊藤内閣逓信相を経て、衆議院議員当選。総理就任時、62歳。大正10(1921)年11月4日、東京駅にて暗殺される。享年65。
総理大臣歴:第19代1918年9月29日~1921年11月4日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。