その佐藤は、幼少時代は“劣等生”であった。小学校は入学時130人中、じつに127番だったというから、幼くして飛び切りの秀才だった実兄の岸信介元総理とは、だいぶ違うのである。
しかし、なかなかの努力家で、旧制山口中学1年1学期の成績では全校で18番、しかし卒業後は、旧制一高には入れず、熊本の五高に回されている。
また、その五高では入試の際、同じ受験生に池田勇人がおり、泊まった宿が一緒だったという奇縁がある。その後、五高から佐藤は東大へ、池田は京大へ、卒業後は佐藤は鉄道省、池田は大蔵省へ進み、吉田茂の知遇を得たのだから、共になかなかの「強運」と言っていいのである。
なぜなら、池田は大蔵省事務官から政界入りすると吉田に目をかけられ、代議士1年生にして大蔵大臣のポストに就き、佐藤はと言えば、やはり政界入り後、自由党の幹事長時代に「造船疑獄」に引っかかり、やはり吉田のサシガネによる時の犬養健法務大臣の「指揮権発動」で、からくも逮捕をまぬがれたからである。この吉田の“助け舟”がなかったら、のちに長期政権のうえで「沖縄返還」を成し遂げることになる佐藤は、存在しなかったと言っていいのである。
ちなみに、岸・佐藤の兄弟は中選挙区時代の〈山口2区〉で、長らく血で血を洗う「骨肉の争い」も演じている。とくに佐藤が「造船疑獄」に引っかかった直後の昭和30(1955)年2月の総選挙は、凄まじい争いとなった。かつてそれを取材した政治部記者の、次のような証言が残っている。
「時に、鳩山一郎内閣。岸は鳩山率いる民主党、対して佐藤は吉田茂率いる自由党で、保守系の主導権争いを演じた関係にあった。とくに、佐藤にとっては厳しい選挙だった。野党からの攻撃の一方で、同じ保守系の岸陣営からも、『われわれの郷里から汚職者を出して申し訳ありません』などとやられ、大苦戦に陥った。佐藤の妻・寛子も寒風の下、心痛からガリガリにやせ細って、連日、選挙区内を泣き歩いていた。投票日の1週間前、吉田総理が応援に入ってくれ、『佐藤君は潔白。党のために犠牲になったのだ』などと演説、これが功を奏した感じで、佐藤はからくも落選をまぬがれた」
こうした兄弟を叔父にあたる国際連盟脱退を演じた元外務大臣の松岡洋右(ようすけ)は、「頭脳と才能なら岸、人物は佐藤」と評したものであった。
ところがドッコイ、その後「人物の佐藤」は、冷徹極まる「佐藤流人事」を繰り出し、これを最大の武器にのちに総理になったあと、長期政権体制を構築することになるのだった。
■佐藤栄作の略歴
明治34(1901)年3月27日、山口県生まれ。東京帝国大学法学部卒業後、鉄道省入省。ノーバッジで第2次吉田内閣官房長官。昭和39(1964)年11月第一次内閣組織。総理就任時63歳。沖縄返還協定調印。昭和50(1975)年6月3日、脳卒中で死去。享年74。
総理大臣歴:第61~63代 1964年11月9日~1972年7月7日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。