佐藤退陣後、熾烈な総裁選を経、田中角栄が福田赳夫を破って後継の政権となった。
総理の重責から解放された佐藤は、妻・寛子のさしがね、服飾デザイナーの森英恵のアドバイスもあって、当時、流行の長髪にイメージ・チェンジをするなど、政権時とは打って変わった“自由人”となっていた。
一方で写経にも熱心で、災害などで犠牲者が多く出たときの供養なども含め、奈良・薬師寺に納めた分だけで約300巻に達していたのだった。
その佐藤が倒れたのは、ノーベル平和賞を受賞して約半年の政権の座を降りてわずか3年足らずであった。昭和50(1975)年5月19日、場所は東京・築地の料亭「新喜楽」。政財界人が、佐藤を囲んで懇談する「長栄会」の場であった。当時の出席者の一人によれば、倒れたときの様子は次のようであった。
「佐藤さんのそばに(当時、三木武夫内閣副総理兼経企庁長官の)福田赳夫さんがいてね。佐藤さんは、福田さんに、こう言っていた。『君、核防条約は頼むよ。なにしろ、オレはノーベル平和賞だからね』と冗談めかしに言ったあと、トイレに立とうとした。その瞬間、ひっくり返った。何度か一人で立ちあがろうとしていたが‥‥」
結局、脳内出血による意識不明がそれから16日間続いたあと、6月3日に臨終を迎えた。
筆者は、佐藤が亡くなって5、6年経った頃、寛子夫人に佐藤の知られざる横顔をと、インタビューした思い出がある。夫人は政権時の夫妻揃っての訪米でミニ・スカートを着用して話題を呼ぶなど、ザックバランにしててきぱきした性格の人であった。
「病院にいた16日間は『このへんで死んだら、寛子もあきらめてくれるだろう』との、栄作の精一杯の演技じゃなかったかと思っています。倒れてすぐ死んだら、私は間違いなく気がふれたと思っていましたから。栄作の素顔ですか。“黙々栄作”らしく、家庭では私に気をかけてくれる言葉など一つとしてなく、まぁつまらん男でしたよ(笑)。人さまにはとても面倒見のいい涙もろい人情家でしたが。
総理在任中、常々、言っていたのは、『やはり、沖縄が返るまでは(首相を)辞めることはできない』ということでした。総理というのは本当に孤独、公邸の一室で、一人よくトランプ占いをやっていたのを目撃しています。深夜の静まり返った中の一室で、そんな栄作の後ろ姿を見て、ゾッとした思い出もあるんです」
佐藤はこれ慎重、重心を低くしたリーダーシップで、着実に焦土から経済大国へのバトンを渡したという成果を残した。その意味では、政治の責任の極めて大きかった政権をまっとうしたと言える。
佐藤の墓誌に、こんな銘が刻まれている。
「拒まず追わず競わず随わず、縁に従い性に任せ命を信じてなんぞ疑わん」
本人しか窺い知れぬ、戦後歴代2位の長期政権、そのリーダーシップの深層が知れるようでもある。
■佐藤栄作の略歴
明治34(1901)年3月27日、山口県生まれ。東京帝国大学法学部卒業後、鉄道省入省。ノーバッジで第2次吉田内閣官房長官。昭和39(1964)年11月第一次内閣組織。総理就任時63歳。沖縄返還協定調印。昭和50(1975)年6月3日、脳卒中で死去。享年74。
総理大臣歴:第61~63代 1964年11月9日~1972年7月7日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。