さて、この池田、人間的魅力で求心力を高めた「野人宰相」とも言えた。どこか憎めぬヤンチャな言動、剛直と楽天、稚気豊か、明るく開けっ広げな性格、しかし一方で繊細さと優しさが同居、これに人材が集まったのだった。
政権スタート時の政策運営のブレーンには、のちに総理となる大平正芳、宮沢喜一の両秘書官、自民党幹事長をやった前尾繁三郎、内閣官房長官をやった黒金泰美らの池田と同じ大蔵省(現・財務省)出身が中枢を固め、党人派でやはりのちに総理となる鈴木善幸も取り巻きの一人であった。
また、下村治、高橋亀吉といった一級の経済学者が脇を固め、財界からも「四天王」と呼ばれた小林中(あたる)、桜田武、水野成夫(しげお)、永野重雄が日本の経済的復興を池田に託して支援を惜しまなかった。
こうした池田の人間的魅力は、どうやら池田の生い立ち、環境が育んだようであった。
池田は何一つ不自由のない広島県竹原の酒造家に生まれ、旧制五高(現・熊本大学)から京都帝国大学法学部を経、大蔵省に入っている。バンカラな校風の五高時代には、仕送りが潤沢なのをいいことに仲間を料理屋に誘って飲めや歌えの大盤振る舞い、時に自ら屋台を引き、タダで一杯飲めるし、ヒト儲けもたくらんだのだが、「どう食べていかない」と女学生などに声をかけると、皆、怖がっていっせいに逃げてしまうなど、なんとも自由奔放な生活を送っていた。
また、池田の次の総理となる佐藤栄作は五高の同期だが、二人とも一高を受けて不合格、当時の制度により五高に回されたという経緯がある。佐藤はこれを甘受したが、池田は翌年もう一度、一高に挑戦して失敗、結局五高に入学したのだった。ために、五高卒業は池田が佐藤より1年遅れとなっている。
その後、京大から大蔵省に入った池田だったが、ここで大きな挫折を味わうことになる。伯爵の娘と結婚、順調な官僚生活に入ったが、栃木県の宇都宮税務署長のとき全身からウミが吹き出すという難病にかかり、妻を看病疲れで失ったあげく、自らも退官を余儀なくされるのだった。その後、母親、親戚の娘だった大貫満枝の必死の看病で難病は奇跡的な回復を見せ、この満枝と再婚するとともに大蔵省に復帰を果たすことになるのである。
放埓な学生時代、自らの難病と妻の死、そして余儀なくされた大蔵省退官というこれ以上ない絶望感、そして持ち前の明るい性格の中で、池田の人に好かれるという人間的魅力は磨かれていったようである。
その池田を買ったのが、時の最高権力者・吉田茂総理であった。吉田の目に止まったことで、以後、池田は「出世魚」の異名を得るのである。
復職した大蔵省を事務次官で退職したあと政界入りした1年生代議士の池田を、吉田はなんと一気に大蔵大臣にしてしまったのであった。
■池田勇人の略歴
明治32(1899)年12月3日、広島県生まれ。京都帝国大学法学部卒業後、大蔵省入省。難病を得て休職。復職後、大蔵次官。議員1年生にして、蔵相。昭和35年7月第一次内閣組織。総理就任時59歳。昭和40(1965)年8月13日、ガンのため死去。享年65。
総理大臣歴:第58~60代 1960年7月19日~1964年11月9日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。