三木武夫の「したたかさ」について、かの百戦錬磨の田中角栄でさえ、天を仰いでこう言ったものだった。
「三木をやり手の年増芸者とすれば、福田(赳夫)も大平(正芳)も女学生みたいなものだ。三木がプロなら、福田も大平もアマということだ。太鼓、三味線の音が鳴り出せば、三木は呼びもしないのに飛んでくる。年増芸者ながら年も考えず、尻まで裾をはしょって舞台に上がり、客の前で踊ってみせる。しぶとい。しかし『芸』があるから、アレは生き残る」
田中角栄が金脈・女性問題で退陣、その後継となったときの三木の“振る舞い”が、まずその「したたかさ」を物語っている。なるほど、「芸」に満ち満ちていた三木だったのだ。
田中内閣がスキャンダルによる退陣だったことから、三木政権は自民党が世論の批判をかわすという狙いから誕生した。昭和49(1974)年12月、田中の後継総裁選定を党から委ねられた、時の椎名悦三郎副総裁が自民党の再建をかけて「神に祈る気持ち」で裁定、後継に指名したのが三木ということであった。三木が他の実力者より世論の批判のマトであった「金権」から、最も遠いところにいると思われていることで指名されたということである。
この「椎名裁定」は決定まで曲折があり、椎名は極秘にこの作業を進めたが、この間、総理退陣はしたものの隠然たる影響力を持った佐藤栄作ら二、三人の実力者に、胸中を漏らしていた形跡があった。
そうした中で、裁定の公表前々日には、椎名のなかでは明確に後継は「三木」が固まっていた。政界では、この手の情報が流れるのは光より早いのが通例だ。三木も、前々日には、すでに自分が裁定されることを知っていたのである。
そしての裁定の公表を受け、三木が口にした“声明”が「青天の霹靂。予想だにしなかった」ということであった。
しかも、後継になるや、ただちに自民党がいやがる政治資金規正法と独占禁止法のいずれもの改正を「私の理念だ」として掲げた。しかし、党内からはこの二つの法律の改正は、「世論受けを狙ったのは明らか」「いい子になりたかったのだ」の批判の声が大勢だった。
加えて、三木政権のさなかの昭和51年7月のロッキード事件で、田中角栄が逮捕される過程でむしろ突き放す姿勢に徹していたことから、田中派あたりからは「三木には惻隠(そくいん)の情がない」と“冷徹”へのブーイングも浴びせられたが、どこ吹く風といった面持ちだったのである。
■三木武夫の略歴
明治40(1907)年3月17日、徳島県生まれ。アメリカ留学を経て、明治大学法科卒業。昭和12(1937)年4月、衆議院議員初当選。昭和49(1974)年12月、田中退陣を受け「椎名裁定」で自民党総裁、三木内閣組織。総理就任時67歳。昭和63(1988)年11月14日、81歳で死去。
総理大臣歴:第66代1974年12月9日~1976年12月24日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。