伊藤博文から安倍晋三まで62人の明治・大正・昭和・令和と、日本の舵取りを担った総理大臣のリーダーシップ、それを支えた「胆力」を点検してきたが、いよいよこの連載も最終回である。その総括として、改めて足跡を残したトップリーダーと、その時代背景を早足で振り返ってみたい。
明治・大正期は、日本が急速な近代化を突っ走った時代であった。260年以上にわたった徳川幕府の朝廷への大政奉還後、大久保利通、西郷隆盛らの薩長藩出身の志士たちが、その舵取りを担い明治新政府を設立した。近代化のために積極的に西洋文明を取り入れた「文明開化」の中で、自由民権運動の機運が高まり、1885年に初の内閣制度が発足、初代総理大臣として伊藤博文が任命されている。大日本帝国憲法が発布され、日本の「憲政」の幕が開いた時代ということであった。
やがて近代化改革も成し遂げるが、一方で欧米列強への仲間入りを目指したことで、日清・日露戦争、第1次世界大戦へ参戦、これがその後の昭和で、軍国主義、帝国主義として世界とあつれきを生むことになっている。この明治・大正期では、日本初の「政党内閣」を誕生させた大隈重信、「平民宰相」として強力なリーダーシップを見せた原敬に、今日の政党政治への「先見性」を見ることができた。
昭和に入り、特に前期(戦前)は、軍国主義、帝国主義の台頭が避け難く、満州事変を機に軍部の暴走は拍車をかけ、言論封殺の一方で日中戦争、太平洋戦争に突き進んだあと、国際的な孤立を余儀なくされた時代であった。この時代、トップリーダーに切れ者は多かったが、結局はファシズム的な風潮に流されたリーダーが多かった。中でも浜口雄幸、犬養毅、鈴木貫太郎は、自らの政治信念を譲らずの「胆力」がうかがえたものであった。
その後の1945年夏の太平洋戦争敗北を機とする昭和後期になると、民主化へ向けての「国民主権」「基本的人権」「平和主義」の三つを原則とする日本国憲法のもと、「平和国家」への道を模索した。戦後復興から高度成長への道を突っ走り、一方で政治的には自民党VS社会党という「55年体制」が定着したのが特徴的であった。
もっと言えば、「平和国家」の確立を目指すこの期の過程で、特に吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄の政権は、国際協調の中で、それぞれ国の舵取り、経済の復興に資する能力、牽引力を発揮したと言えた。
しかし、平成期に入ると、東西ドイツ統一、ソ連の崩壊、中東問題など、世界的な東西冷戦が一応の収束をみたことで、トップリーダーの資質も、それまでとはいささか変容を迫られた。「ポスト冷戦」により、新たな世界の民族問題などのあつれきが発生、そうした地域への「貢献」で、日本も憲法との整合性の問題など、政策へのいわゆる踏み込みいかんが問われるようになった。
また、一方で好調だった経済は「バブル崩壊」を機に低迷期に入り、「リーマン・ショック」の追い打ちを受けながら、令和の期を迎えることになったということである。
また、この平成期で国内政治的に特徴的だったのは、それまでの「55年体制」が崩壊、連立の時代に突入したということだった。伴って、昭和後期のような総理大臣としての強力なリーダーシップは後退した。トップリーダーには、「協調性」がより求められたのである。
しかし、一方で小選挙区制の導入が、国会議員というものの体質を大きく変えた。時の総理大臣は、議員の公認権と政治資金の配分で議員の生殺与奪を握ることになったことで、選挙をやればやるほど政権は強くなり、相対的に政権に媚びる議員が増える形になった。第2次内閣以降、安倍晋三政権に、それが顕著と言えたのである。
こうした政治体制に振り回される形で、野党の伸長は抑えられて弱体化、与党議員の“脆弱ぶり”と併せて、政治家、否政治そのものの「劣化」が問われるようにもなったということだった。
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。