その宮澤が総理に座ったのは、じつに72歳になってであった。
中曽根康弘の「裁定」で選ばれた竹下登政権がリクルート事件で躓き、しかし影響力温存を窺う竹下は自分のあとの政権に、宇野宗佑、海部俊樹を担いだ。その海部政権後を巡って、竹下派に主導権争いが生じた。
竹下自身は竹下派幹部だった橋本龍太郎を視野に入れたが、同派で力をつけていた小沢一郎が後継を争う形だった渡辺美智雄、三塚博、そして宮澤の三人を自らの事務所に呼びつけて“面談”、結果、宮澤を選んだということだった。こうした異例の形での総理選出に、当時を取材していた政治部記者の話が残っている。
「宮澤としては、最大派閥竹下派の“お墨付き”を得たということだったが、人生最大の挫折感を味わった瞬間でもあった。プライドが人一倍高い宮澤が、若造の小沢に事務所に呼びつけられたのだから当然でしょう。選ばれた宮澤に、笑顔は皆無だった」
その宮澤内閣は、初の所信表明演説で「生活大国」づくりを打ち出した。師匠・池田勇人の「所得倍増計画」を敷衍させた形での「資産倍増計画」を打ち出したが、結果的には果たせなかった。前任の海部内閣が積み残した「PKO(国連平和維持協力)法案」と、小選挙区制導入を軸とした「政治改革」問題に振り回され、とても手がつけられる状態にはなかったということだった。
やがて、宮澤を選出した小沢一郎が竹下登と決別、自民党を離党して野党8党派による「非自民政権」としての細川(護熙)連立政権に成功、宮澤は退陣を余儀なくされた。自民党は昭和30(1955)年11月15日の保守合同での結党以来、じつに38年目にして初めて政権の座からすべり落ちた。自民党15代総裁でもあった宮澤は、大政奉還で徳川幕府に幕を引いた15代将軍・徳川慶喜に擬せられたのだった。
最後まで“汚れ役”ができずの「孤高の政権」として、象徴的な退場でもあった。
■宮澤喜一の略歴
大正8(1919)年10月8日、東京都生まれ。東京帝国大学卒業後、大蔵省入省。昭和28(1953)年4月、参議院選初当選。のち、衆院に転じる。平成3(1991)年11月、内閣組織。総理就任時72歳。内閣不信任案可決で解散、総選挙後、退陣。平成19(2007)年6月28日、87歳で死去。
総理大臣歴:第78代 1991年11月5日~1993年8月9日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。