今でこそ「週刊少年ジャンプ」は少年漫画誌の代表格のイメージだが、創刊当初は後発もいいところ。先発少年誌に有名漫画家はすでに囲われた格好で、やむなく新人重視主義をとらざるをえなかった。しかし、この点こそが飛躍の原動力となったという当時の「激動の日々」を、創刊時の編集メンバーが語る。
鳥山明、江口寿史、原哲夫、宮下あきら‥‥本連載で取り上げてきた作家たちもそうだが、少年ジャンプの特徴の一つに「ジャンプでデビューした作家によって誌面が構成されている」という点がある。
ジャンプから他誌へと活躍の場を広げていく漫画家は多いが、その逆はほとんど例がない。ジャンプが「純血主義」と言われるゆえんだ。
こうした新人の起用力、発掘力が少年ジャンプを少年漫画誌の王者へ押し上げていく原動力だったのは間違いないが、実は同誌が新人に力を注いだのは、創刊当時の事情がある。
1968年、ジャンプ創刊の年に集英社に入社し、創刊直後から同誌に関わった編集者・角南攻はこう振り返る。
「当時は、ちょうど月刊少年誌が終わっていく時代でね。『鉄腕アトム』や『鉄人28号』を生んだ雑誌『少年』が休刊。『赤胴鈴之助』や『黄金バット』の『少年画報』も斜陽に入っていた。一方で、59年に創刊された『少年サンデー』や『少年マガジン』という週刊誌が勢いづいていた。そんな頃に『少年ジャンプ』は月2回刊として創刊するんだけど、もう他社に売れっ子が囲い込まれちゃっててね。石ノ森(章太郎)さんとか当時の大家にも原稿をお願いに行ったんだけど、創刊のご祝儀的に3回くらいなら描けるけど、連載は無理だと断られてね。既存の大作家に相手にしてもらえなかったから、新人ばっかりでやることになったんだよ」
創刊当時の部数は10万5000部。今でこそ漫画の最大手である集英社だが、当時はまだまだ規模が小さかった。競合誌のプレッシャーに加え、予算も潤沢ではなかった。新人起用は、そんな悪条件の中で出発したジャンプの苦肉の策だったのだ。
とはいえ、無名の新創刊誌にいきなり新人が売り込みに来るわけはない。やはり少年ジャンプ創刊メンバーの一人であり、のちに3代目編集長となる西村繁男が言う。
「最初は(少年ジャンプの前身となった)『少年ブック』でつきあいのあった作家さんのアシスタントから新人を探してデビューさせていった。その後、新人漫画賞を設けて、誌面でも募集するようになってね。だんだん『わりと新人が載る雑誌だ』というのが知られるようになって、原稿の持ち込みが増えるようになった。編集者もいい新人を見つけて担当としてヒット作を生みたいもんだから、新人が来そうな時間を狙って会社にいるようになってね(笑)。朝早くはまず来ないから、午後から夕方にかけてなるべく席にいて、持ち込みが来たら我先にと対応してたよ」
編集部内でも新人の奪い合いになるほどの熱気が、のちのジャンプの飛躍を作っていったのだ。