連載に向けて急ピッチで準備が進んだ「北斗の拳」だが、まだハードルは残されていた。
原は物語を迫力のある漫画に仕上げていく演出力はズバ抜けていたが、物語作りはあまり得意ではなかった。読み切り版「北斗の拳」では、堀江がかなりのアイデアを出していた。ほとんど原作者として作品に関わっていたのだ。
このまま担当編集である堀江が原作を作り続けることは、週刊連載では不可能であった。そのため、「連載にするなら原作者を付けろ」という見えないプレッシャーがあったという。
「武論尊先生の前にも、他の原作者の方に書いてもらったことがあるんだけど、どうもしっくりこない。それで、武論尊先生を先輩に紹介してもらった。浪花節を書ける人だったから、原先生とマッチすると思った。とはいえ、もう読み切り版で『北斗神拳』というベースが出来上がっていた作品だから、武論尊先生は嫌だったと思うよ。『とりあえず試しに書いてみて』という形で頼んでやってもらったんだけど、これが、案の定ハマった」(堀江)
連載開始後も堀江は物語作りに大きくかかわり、3人態勢で「北斗の拳」を成長させていく。堀江はアイデアを出すのはもちろんのこと、原作者と漫画家の間に立ち、両者の気持ちが同じになるよう調整役も果たした。事前に、両者に情報を少しずつリークする調整法が、「北斗の拳」における「キャラクターのインフレ現象」を起こす。
「普通、ちょっとかっこいいキャラクターを生み出せたら、『これでしばらく人気を出せる』と考えるんだけど、『北斗の拳』では、かっこいいキャラクターもあっさり死ぬ。原先生にすぐ死ぬキャラクターであることを教えなかったから、『この先も登場するのかな』と思わせておいて、メインキャラのように描いてもらっていた」(堀江)
もちろん、武論尊も堀江と“闘って”いた。小誌4月4日号の吉田豪のインタビューで、ボツになった時をこう回想している。
「何も言わないで(原稿を)突き返すんですよ。ホントにムカつくんだけど、(中略)おもしろいかおもしろくないかっていうのは堀江くんのツボに入るか入らないかなんです。顔見りゃただの鈍感男だし、態度もデカい男なんだけど、そのツボだけはすごいものを持っている」(武論尊)
堀江に全幅の信頼を置いていたのは、原も同様だ。
「(原にキャラがすぐ死ぬことを)言っても、言わなくても全力で描いていたけどね。ヒット作を何本も描く作家さんなんてほとんどいない時代で、原先生も『北斗の拳』を描いて燃え尽きるって気持ちだったから、出し惜しみなんてしなかった。でも、その分、原先生も武論尊先生も大変だったと思うよ」(堀江)
その後、ジャンプは躍進を続け、堀江も93年に編集長に就任する。94年には発行部数653万部を記録。その後、00年に集英社を退社した堀江は、原や北条らとともに株式会社コアミックスを設立した。現在は「月刊コミックゼノン」の出版をしている。
「『北斗の拳』を嫌いという人もいたけど、大ヒット作っていうのは、多くの人が嫌いでも10人に1人が熱狂的に好きと言ってくれる作品のことを指す。まさに『北斗の拳』は、そういうエッジの立った作品だった。その分、少年誌に掲載する作品じゃないって声もあったけど、主人公が少年でなくても『少年性』を持って入れば、少年漫画だと思うんだよね。じゃあ、『少年性』とは何かって言われたら、『友情・努力・勝利』だよ。今も『コミックゼノン』に『少年』と付けば、少年誌になるように作っている」(堀江)
今年、「北斗の拳」は連載開始から30周年を迎えた。今なお国民的作品として、光り輝いているのは、ジャンプの編集方針が息づいているからだろう。