ようやく果たした政権交代をわずか3年余で再び政権を自民党に明け渡す役割を演じたのが、この野田佳彦であった。
野田は東日本大震災で危機管理能力欠如を暴露、退陣を余儀なくされた菅直人のあとを襲った形で総理大臣に就任した。野田は民主党内での存在感は高いとは言えなかったが、代表選出後の他の面々に決め手がなく、言うなら“消去法”で勝ち上がったと言えた。
初めから強いリーダーシップに期待感があったわけでもなく、前任の鳩山由紀夫、菅直人がいずれも重心の高い危うさがあったことから、一見、重心の低さを感じさせた雰囲気に期待感があった。
人物はというと、愛称は「どじょう」でキレはないが、どこか愛嬌もあり実直そうな印象を与えた。
そうしたやや地味な野田政権のすべり出しの内閣支持率は、予想を上回る60%の高さであった。その具体的期待感は、大きく二つあった。
一つは、鳩山、菅の両政権が党内人事で常にゴタゴタを招いていたことから、こうした人事を払拭してみせてくれるのではという期待感であった。なるほど、野田は党を仕切る幹事長に、党内左派ではあるが小沢一郎ら右派とのパイプもある輿石東を持って来たことで、党内へのにらみを期待したものだった。こうした人事は、まずは成功した。
二つ目は派手さはないが、重心を低くして堅実な政権運営を行いそうだというものだった。政権発足当初、自民党からは、「鳩山や菅と違い、自民党との対決路線を取らず、低く構えて融和路線で臨んで来そうだ。油断はできない」との声も出たくらいだったのだ。
ところが、芝居の幕が開くと、間もなく観客(国民)の多くは失望感にひたることになる。政権発足から初の国会である臨時国会さなかに閣僚の放言、失言が重なり、自民党からも一変して、「野田政権は意外と早く潰れるのではないか」との見方が出始めた。
しかし、野田自身はこうした声を向こうに、強気な政権運営に徹した。このあたりが、意外と神経の図太い「どじょう」の本性ということのようでもあった。
すなわち、民主党内にも懸念のあったTPP(環太平洋経済連携協定)交渉への参加を表明、「社会保障と税の一体改革」のための消費税率の引き上げへ意欲を示したということである。
ところが、とくに消費増税に関して、まずノーを突きつけてきたのが党内最大勢力の小沢一郎のグループだった。例えば、こんな声が出たのだった。
「民主党が国民と約束、政権を取らせてもらったのは『国民の生活が第一』ということではなかったか。それが消費増税の負担増では、政権がもたない、消費増税を『不退転の決意でやる』とまで表明しているが、あの執着ぶりは異常としか言えない」
ついに、小沢グループの衆参50名がもはや野田政権に協力できないとして離党届を提出、ここから実質的な民主党の瓦解、野田政権の崩壊が始まったといってよかったのである。
一方、総理大臣が「不退転の決意」という言葉を使った以上、その増税法案の成立は不可避なものとなる。ところが、野田は党内の支持グループが脆弱であり、一方で最大野党の自民党の協力も得なければ成立は難しいが、自民党とのパイプもほとんどなかった。また、根回しなどの手法も得意とは言い難かった。窮余の一策と言うべきか、野田はここで法案成立への“爆弾”を投げたのだった。
■野田佳彦の略歴
昭和32(1957)年5月20日、千葉県船橋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。松下政経塾第一期生。平成5(1993)年7月、衆議院議員初当選。平成12(2000)年、民主党から出馬、当選。平成23(2011)年9月、内閣組織。総理就任時54歳。現在63歳。
総理大臣歴:第95代 2011年9月2日~2012年12月26日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。