連日、熱闘を繰り広げた春の選抜高校野球が幕を下ろした。試合後には両チームの監督を囲んでのインタビューが行われるが、ここでとんでもないことを言い出す監督がいた。
それは1967年の大会で習志野高校(千葉県)を率い、全国制覇した市原弘道監督。この年、習志野高校は5年ぶり2度目の甲子園出場。1回戦で堀越を3-1で下した習志野は、続く2回戦で仙台商を6-3、準々決勝では富山商を16-2の大差で破り、4強入りする。準決勝で対戦した前年春夏の覇者、中京(現・中京大中京)も3-2で破る快進撃で、いよいよ決勝を残すだけとなった。
ところが試合後の市原監督は、相手チームの中京を名指して、次のようにブチかましたのだ。
「中京はネームバリューだけで勝ってきたチーム。9回、ちょっとその片鱗を見せましたが、あとはどこにでもある田舎チームで、モタモタした足に溺れたチームだったですよ」
実は市原監督、準々決勝で圧勝した富山商との試合後にも、
「向こうのピッチャーは棒球ばかり。打って当たり前」
とコキ下ろした「前科」がある。
この上から目線の裏には、習志野ナインを鼓舞する狙いがあったのだろう。翌日の決勝戦で強豪の広陵高を7-1で退け、千葉県勢初の全国制覇を達成した。
閉会式後、本来であれば「ハワイ・米国遠征チーム」の監督には優勝校の指揮官が選出されるのが常だが、選考委員は全会一致で中京・杉浦藤文監督を指名。誰ひとり、市原監督を支持しなかったのである。
そればかりではない。たび重なる暴言を問題視した習志野高は全国制覇の直後、市原監督の電撃解任を発表。これは当時、ワイドショーで大きな話題になった。
その後、市原監督は千葉県立八千代高校に転任。ここでも女子テニス部を何度も全国大会に導いたが、二度と高校野球と関わることはなかった。
その采配を含め、天才肌の監督。だがそれ以上に、口の悪さが勝ってしまった。
(山川敦司)