「あんた、総理になるのもいいが“短命”で終わるぞ。それでもいいのか」
自民党を結党以来初めて野党に突き落とし、日本新党の細川護熙を総理大臣に戴いた共産党を除く野党8党派による非自民連立政権。だが、1年足らずで細川がスキャンダルによって失脚、その後釜に担ぎ上げられたのが、新生党党首の羽田孜であった。
羽田は小沢一郎らと自民党竹下派を割り、新生党として非自民連立政権づくりに汗をかいた。細川が失脚する直前には、新党さきがけが8党派を牽引する小沢の“独善性”にイヤ気がさして離脱、社会党の離脱もまた「時間の問題」とされていた。
そうした中で、政局勘にたけた小沢は、細川が失脚する前にすでにこの非自民政権の行方、すなわち崩壊を読んでいた。しかし、とにもかくにも細川の「次」を決めなければならない。冒頭の言葉は、そうした状況下で羽田を前に、小沢が発したそれである。小沢はすでに、自民党が新党さきがけ、社会党と図って政権奪還に動いていることを知っていたのだった。
小沢の言葉に、羽田は言った。
「(短命でも)かまわない。やってみる。よろしく頼む」
かくて、羽田連立内閣が組織された。しかし、小沢の言葉通り、この政権は「超短命」で終わった。政権の“寿命”は、かの69日間だった宇野宗佑政権より短い64日間というものであった。
羽田という政治家は、自民党竹下派離脱直前には「ミスター政治改革」との異名があったように、カネのかかる政治を“諸悪の根源”として斬って捨てていた。竹下派時代、小沢と並んで同派最高幹部だった金丸信(元副総裁)が、「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山(静六)」と以後の政治状況いかんでのトップリーダーとなる“資質”をこう指摘していたものだった。
これに対し、羽田はこう言っていた。
「私のことを総理・総裁になどと言われるのはありがたいが、本当にやりたいのは衆院議長なんだ。与野党が信頼関係を持って真に話し合いのできる国会、すなわち国会改革をやりたいのだ。それは政治改革と同一線上にあるものだと思っている」
また、筆者が、羽田が竹下派を離脱する直前にしたインタビューでは、こうも言っていた。
「いまの自民党は“おごり”と言われるが、むしろ惰性の固まりと思っている。“おごり”があるくらいなら、“金属疲労”なんて言われない。党としての活力、ダイナミズム、緊張感、どれを取っても足りない」
「政治の世界は、決して特別な世界じゃない。言葉一つとっても、なぜ“永田町用語”で、ふつうの言葉でいけないのかが分からない。だから、国民から自民党政治は分かりにくいと言われる。庶民感覚を大事にしたい」
ために、総理就任初の所信表明演説でも「血のつながる政治、心につながる政治、普通の言葉に通じる政治を心掛け、そのための“改革と協調”に力を入れる」としたのだった。
しかし、時にすでに非自民政権は無力化しており、取り組んだ平成6(1994)年度予算案成立後に、早くも内閣総辞職を表明せざるを得ない状況になっていたものだった。政権は少数与党となっており、野党の自民党からは内閣不信任決議案提出の動きも出ていたことから、提出されれば可決は必至。もはやこれまで、という内閣総辞職表明だった。
■羽田孜の略歴
昭和10(1935)年8月24日、長野県生まれ。成城大学卒業後、小田急バス入社。昭和44(1969)年12月、衆議院議員初当選。新生党結成。平成6(1994)年4月、羽田連立内閣組織。総理就任時58歳。総辞職後、民主党に参加。平成29(2017)年、8月28日、老衰のため死去。享年82。
総理大臣歴:第80代 1994年4月28日~1994年6月30日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。