自民党を離脱、新生党の代表幹事として野党に転じていた小沢一郎の大仕掛けにより成立したのが、この細川護熙政権であった。政権発足直後の内閣支持率は、じつに83%(『読売新聞』)と異例の高さで、期待の大きさが顕著であった。
小沢は自らの新生党に、公明党、社会党、新党さきがけ、細川が立ち上げた日本新党など8党派を糾合、細川をミコシに担ぐ形での連立政権を構築した。しかし、この非自民連立政権は、企業ならシンボルとしての会長が首相の細川であり、実質的な代表権を持つ社長が小沢であったことで、結局は1年にも満たぬ短命政権を余儀なくされたのだった。
細川が、まず公約として持ち出したのは、「政治改革」であった。ここでの政治改革とは、一つに衆院の小選挙区比例代表並立制の導入、もう一つが政党助成金交付ということだった。これは小沢の狙いそのもので、今後の政党再編、政権交代可能な二大政党を想定したものだった。
これらは政治改革関連法案として提出され、衆院では修正のうえ可決したが、社会党が小沢のあまりの独断ぶりに音を上げ、参院では反対に回って、結局は否決されてしまった。ちなみに、社会党はこれを機に連立離脱の機運が高まり、これがのちに村山富市委員長を首班とした自民党との連立を組む芽になってくるのである。
さて、政権の旗印とした政治改革が頓挫では“会長”の座は危ういということで、細川が打った手は自民党の河野洋平総裁とのトップ会談だった。ここで、自民党との間で衆院の小選挙区300、比例代表200とするなど10項目にわたる合意ができ、ここに昭和22(1947)年以来続いた衆院の中選挙区制にピリオドが打たれることになった。
しかし、公約を果たせてホッとしたのもつかの間、担がれたミコシは、小沢から次なる要求を突きつけられるのであった。高齢化社会を迎える中で、年金、医療などの社会保障の財源として、「国民福祉税」の新設、導入を強いられたということだった。
しかし、記者会見でこの構想をブチ上げることになった細川だったが、構想の中身がよく練られていなかったことから答弁はしどろもどろ、またしても社会党が批判の声を挙げたことで、この構想は白紙となってしまった。
同時に、ここで社会党の連立離脱は決定的になったのだった。ここでは、常に社会党とのバランスに腐心せざるを得なかったことから、細川内閣は「ヤジロベー政権」と言われたのだった。
こうして連立与党内から信頼を失った細川政権が崩れるのは、アッという間であった。
「国民福祉税」構想がブチ上げられた直後、折り悪しく細川自身に対する東京佐川急便からの1億円借り入れ問題、義父名義のNTT株取得に関する疑惑が浮上した。国会答弁では明確さが欠け、スキャンダルで窮地に追い込まれたということだった。
よせばいいものを、先の政治改革関連法案を「年内(平成5年)に成立しなければ責任を取る」と自信たっぷり、明言していたことも手伝って、ついに退陣表明を余儀なくされたということであった。ここでは「ヤジロベー政権」の一方で、「気まぐれな殿様」の異名も一枚加わったのだった。「気まぐれな殿様」とは、母方の祖父が戦前の近衛文麿総理であり、細川自身が肥後54万石の熊本藩主・細川家の18代当主と“毛並み”のよさから来ている。
幼少の頃は、常にしつけ役の「おばば様」がおり、周囲は細川に対し「若様、若様」と腫れ物にさわるような扱いだったのだ。言うなら、こうした“殿様気質”のおおらかさの一方で、脇の甘さが招いた短命政権だったということであった。
加えるなら、細川はそうした地元の堅固な支持基盤に乗り、本来の苛烈な選挙戦とは縁遠い中で、参院議員、熊本県知事を経、衆院に転じて1年生で総理大臣の頂にのぼったことから、魑魅魍魎の政治の世界のワナにひっかかったと言えなくもなかった。
■細川護熙の略歴
昭和13(1938)年1月14日、東京都生まれ。上智大学法学部卒業後、朝日新聞社入社。昭和46(1971)年6月、参議院議員初当選。熊本県知事を経て、日本新党を結成。平成5(1993)年8月、非自民政権としての細川連立内閣組織。総理就任時55歳。その後、政界引退。現在82歳。
総理大臣歴:第79代 1993年8月9日~1994年4月28日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。