1983年8月29日の新日本プロレス役員会。クーデターによって代表取締役社長のアントニオ猪木、代表取締役副社長の坂口征二は平取締役に降格。山本小鉄取締役審判部長、大塚博美取締役副社長、望月和治常務の3人が代表権を持つトロイカ体制になった。
だが、このトロイカ政権は長続きしなかった。クーデター派とされた営業部、経理部、レスラーたちは、それぞれの立場でそれぞれの正義のために動いて会社改革、あるいは新団体設立を目指したが、トロイカ政権誕生に「当初の目的とは違う」という声が噴出。退社を決意する者もいれば、猪木と坂口に詫びを入れる者もいた。
決定的だったのは「2人が手を組んでやるというなら、一生面倒を見るから」と約束して73年4月に猪木と坂口を合体させたテレビ朝日の三浦甲子二専務と辻井博常務が「猪木、坂口抜きでやれると思っているのか!? もし猪木が辞めるなら、テレビ朝日は新日本の放送を打ち切るぞ!」と、トロイカ政権の3代表に迫ったことだ。
11月11日に開かれた臨時株主総会にて、猪木と坂口がわずか3カ月で復権。代表取締役社長=猪木、代表取締役副社長=岡部政雄(テレビ朝日)、取締役副社長=坂口、専務取締役=永里高平(テレビ朝日)、トロイカ政権の山本と大塚博美は平取締役に降格となり、望月はテレビ朝日に戻された。
こうしてクーデターは鎮圧されたが、独自に行動を開始していたのが“過激な仕掛け人”と呼ばれ、猪木の側近として数々のビッッグイベントを実現させてきた元取締役営業本部長の新間寿である。
表向きはタイガーマスク(佐山聡)引退の責任を取って3カ月の謹慎処分となっていたが、辞表を提出して新日本を8月いっぱいで去り、ジャパンライフの健康産業政治連盟幹事長になった新間は、元梶原一騎プロの川島茂の「フジテレビと話ができているから、もう一度、プロレスをやってみないか?」という誘いに乗った。
それは、84年4月11日から毎週水曜日のレギュラー枠(午後8時~8時54分)の「スポーツ・スクランブル」でプロレス中継を行うというものだった。
10月に佐山と会って和解した新間は「理想の格闘技を目指すなら、ジム経営と並行してプロレスのリングでアピールするべき」と、現役復帰を促した。さらに社長に復帰したが、新日本に居心地の悪さを感じているはずの猪木に声をかけた。
タイガーマスクを復帰させ、猪木が信用できるレスラーだけを連れて移籍してくる第3団体‥‥UWFの設立に動いた新間は、何とジャイアント馬場にも接触した。
82年2月の引き抜き戦争停戦成立を機に、馬場との間にホットラインができた新間は、12月にヒルトンホテル(現ザ・キャピトルホテル東急)で馬場と会談。当時の新間はWWF会長だったが、WWFは新日本と84年4月まで契約があり、それが切れるまでの間の外国人選手のブッキングを要請した。
これに対して馬場は、テリー・ファンクを通じて全日本の常連ではない外国人選手の派遣を了承。
馬場からの条件は、UWFでWWFの選手が呼べるようになったらアンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガン、ボブ・バックランドを全日本に回してほしいというものだった。
テリーがUWFの「オープニング・シリーズ」に派遣したのは、テキサスのサンアントニオを拠点とするSCWから、トップのボブ・スウィータンと若手の有望株スコット・ケーシー、テネシーでトップを張るダッチ・マンテル、フロリダやノースカロライナで頭角を現していた新鋭のビニー・バレンチノの4人。超大物はいなかったが、マニアが喜びそうな人選だった。
さらに日本人サイドでは、この年の1月から全日本にフリー参戦していたマッハ隼人を派遣。馬場は全日本の主力選手に「業界の混乱を避けるために新間の団体とある程度、協力していくことになった。その意味もあってマッハを派遣するけど、全日本の一員として俺の指示で行くわけだから、誤解しないように」と、あらかじめ通達している。
ここで注目すべき点は、猪木がバックに控えていることを承知の上でUWFに協力したことだ。
「馬場さんには“4月からフジテレビで放映します、猪木も来ます”と正直に話しましたよ。日本テレビから出向してきた松根光雄社長との確執もあっただろうから“馬場さん、もし何かあれば利用してください。これで坂口も含めて話し合いができれば、面白いことができますよ。フジテレビには馬場さんも猪木さんも応援してくれていると言ってもいいですか?”と聞いたら、馬場さんは“いいよ”と」(新間氏)
新間氏はフジテレビが放映するUWFで馬場、猪木がそろい踏みし、WWFの大物と馬場ルートのNWAの大物が勢ぞろいするという壮大な夢を描いていたのだ。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。