選手の引き抜き合戦から激化した1981年の新日本プロレスと全日本プロレスの企業戦争は、10月には蔵前戦争に発展した。
8月25日、ジャイアント馬場が東京・六本木の全日本事務所で記者会見を開いて10月の「創立10周年記念ジャイアント・シリーズ」の外国人メンバーを発表。その中には新日本の常連トップ外国人のダスティ・ローデス、ハルク・ホーガン、国際プロレスのエース外国人のひとりだったアレックス・スミルノフが名を連ねていたから、報道陣は騒然となった。
ローデスはこの年の6月21日にハーリー・レイスを撃破してNWA世界ヘビー級王者になっており、馬場は「NWA世界王者の招聘は以前から決まっていたこと。王者がローデスに交代しただけで引き抜きではないし、ホーガンにしても本人からの売り込みで、わざわざ引き抜いたわけではない」と説明。
スミルノフに関しては、まだ解散は公表されていなかったが、8月9日の北海道・羅臼大会以降、国際は活動停止になっており、引き抜きではなかった。
さらに馬場は「10月9日の蔵前国技館大会は、創立10周年にふさわしい祭典にします」と宣言した。
すると、その2日後の27日、東京・青山の新日本事務所で新間寿取締役営業本部長と国際プロレスの吉原功社長が記者会見。日時は未定としながらも、東京、大阪、福岡で新日本と国際の全面対抗戦を開催すると発表。さらに新間が「ホーガンが全日本に行くことはない」と明言すれば、吉原社長も「スミルノフも止めてみせる」と発言して、戦争は全日本vs新日本&国際連合軍の様相を呈した。
その後も丁々発止の攻防が続き、9月4日の全日本の大阪府立体育館大会の控室に上田馬之助のマネージャーが現れて馬場に挑戦状を手渡した。全日本でタイガー・ジェット・シンと合流することが事実上決定したのである。上田は前日まで新日本のシリーズに参加しており、新日本としては寝首をかかれた形だ。
新日本&国際の反撃は3日後の9月7日。京王プラザホテルで国際のラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇、阿修羅・原同席の上で、何と全日本の10周年記念大会前日の10月8日に、同じ蔵前国技館で全面対抗戦を開催することを発表。アントニオ猪木vs木村のエース対決、藤波辰巳(現・辰爾)vs原、長州vs浜口、タイガーマスクvsマッハ隼人、星野勘太郎&剛竜馬vs寺西&鶴見五郎の5試合が組まれ、ホーガン、スミルノフの参加も発表した。
ホーガンに関しては、それ以前に全日本が参加取り消しを発表していたが、なぜ全日本が一度はホーガンの参加を発表したかというと、4月に新日本の「第4回MSGシリーズ」に参加していたボビー・ダンカンが、全日本の外国人招聘窓口のテリー・ファンクに「今、一緒に新日本に来ているホーガンと全日本に行きたいのだが」と持ちかけて、話がまとまったからだ。
テリーとダンカンはウェスト・テキサス大学の同級生で、ダンカンはテリーの父ドリー・ファンク・シニアにスカウトされてプロレスラーになった。テリーにとって気心の知れている人間で、全日本に2度来日したこともある。
テリーは馬場と相談の上、ダンカンを通じてホーガンに契約書を渡したが、ホーガンはこの契約書を新日本との交渉に利用してギャラアップに成功。それを知った馬場は、参加取り消しを発表したのである。
なお、両団体が参加を発表したスミルノフは全日本に参加した。
また、新日本と国際の対抗戦だが、原は全日本、マッハ隼人はメキシコ、鶴見はヨーロッパに新天地を求めて、新日本との対抗戦をキャンセル。新日本に上がるのは木村、浜口、寺西の3人だけになってしまった。
そして10月8日、9日の蔵前戦争だが、8日の新日本では猪木vs木村、藤波vs寺西、剛vs浜口の対抗戦、ハンセン&ホーガンvs長州&ディノ・ブラボー、タイガーマスクvsマスクド・ハリケーンのマスク剥ぎマッチがラインナップされて超満員1万3000人を動員。
翌9日の全日本は10月4日にアメリカで引退したばかりの馬場の親友ブルーノ・サンマルチノが駆けつけて馬場&ブルーノvsシン&上田が実現。さらにローデスに代わって9月17日に新NWA世界王者になったリック・フレアーが来日してジャンボ鶴田と防衛戦、ドリー・ファンク・ジュニアvsブルーザー・ブロディのインター戦、元国際のマイティ井上がミル・マスカラスに挑むIWA世界戦の“夢の4大決戦”で勝負。こちらも超満員1万3000人を発表して蔵前戦争は引き分けに終わった。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。