趣味の渓流釣りのために、全国各地を回っている。その中で記憶に残っているのが、青森県八戸市の新井田川の源流となるダムに通っていた時のことだ。イワナやヤマメを狙って20回以上も通ったものだが、それほど大物は釣れず、八戸から通うのにはまあまあ便利だったというだけの理由である。
八戸市の中心部に流れ込む新井田川の源流は、20キロ近く南西に向かった先にある。一応ダムまでは片道一車線の舗装道路が通じているので、行くのには苦労しないが、南郷町に入って(現在は八戸市に合併されている)新井田川に架かる橋の欄干を見て、思わず驚いて車を停めた。その欄干には、捕鯨砲のレプリカが使われていたからである。こんな山の中に、なんで捕鯨砲があるのか。ワケが分からず、その近所にあった食料品店に飛び込んだ。
「なんでこんなところに捕鯨砲が飾ってあるんですか」
疑問を口にすると、
「この辺りに捕鯨船で働く人が沢山いたようだよ。だから記念として置かれていたみたいだね」
店番のおばさんが説明してくれた。かつて合併前の南郷町役場には本物の捕鯨砲が置かれていたが、現在は道の駅に移転している。なぜここから南氷洋まで行くことになったのか。その疑問を持ったまま、15年ぐらいの歳月が過ぎてしまった。
かつて近海鯨漁の取材をするために、水産庁に申し込んでOKを貰ったことがあった。私は捕鯨についていろいろと勉強し、捕鯨の知識や熱意も認められたのだが、ピースボートの件が災いして、土壇場でキャンセルされてしまったのである。
宮城県の牡鹿半島の先っぽにある鮎川や和歌山県の太地町、そして房総半島の千葉県和田など捕鯨の地にも足を運んでいたが、こんな山の中に捕鯨砲が置いてある秘密を探ろうと思ったのだ。
「南郷から南氷洋へ、捕鯨船に乗った方がいたらしいですね」
南郷町出身の壬生八十博(みぶ・やそひろ)さんは現在、八戸市議であり、私の釣り仲間でもある。青森県モーターボート協会の会長でもあり、暇になると自らのモーターボートを操縦して、三沢沖でヒラメ釣りを楽しむ。
「ああ、南郷町になる前の中沢村からは、たくさん行ったようだよ。オラが暮らしている市野沢(いちのざわ)が中心で、昭和30年代が全盛期だったから」
「たくさんって何人ぐらいですか」
「200~300人ぐらいかな。いや、もっといたかもしれない」
「えっ!?」と驚いた。
「貸し切りバスに乗ってな。日の丸の小旗を振って、オラも子供の時に『万歳、万歳』って送り出した記憶があるよ。バスには紙テープが結ばれて、すごい声援だった」
せいぜい30人ぐらいかと想像していたのに、ひと桁多い。調べてみると、意外なことが判明した。この地の捕鯨従事者が、全国で最も多いのだ。捕鯨従事者の詳細な記録が残っているのは、かつて捕鯨漁の最大手だった大洋漁業だけである。
1951年の第6次南氷洋記録には、都道府県別出身者の記録がある。それによると、1位が青森で210人、2位は宮城の188人、3位が秋田101人。以下、4位・山口、5位・長崎、6位・和歌山、7位・東京という順番である。
鯨漁で有名な鮎川がある宮城や、大洋漁業の本拠地の山口、そして大地町がある和歌山出身の従事者が多いのは理解できるが、青森というのはこの南郷町市野沢を指していたのだ。
南郷町では島守地区からも多くの従事者が南氷洋へ向かっており、他には三戸町からも。総数で、一航海に700人ほどが行っていたという記録がある。これらは全て、海から遠い内陸である。海を見て育ったというワケでもなく、海とは縁のない山の中から、大海原へと向かっていったのだ。
他の日本水産や極洋捕鯨などの記録が残っていないので、一概には言えないが、南郷町を中心にした区域が、日本の捕鯨業を支えた聖地と言えるのではないだろうか。前出の壬生さんが言う。
「この地域は土地が稲作には向いていなくて、林業や炭焼きぐらいしか産業がない、貧しい地域だったのさ。そこで昭和12年頃に当時の村長の提案で、捕鯨船に乗るようになったというわけだ。戦後になると、南氷洋が捕鯨の中心になった。半年航海して帰ってきて、翌年も行く。それを繰り返す。3航海すれば家が建つという時代だったから、クジラ御殿があっちにもこっちにも建てられた」
かつて北海道の江差ではニシンが豊漁で、「ニシン御殿」が建ったという逸話は有名だが、まさか山の中に「クジラ御殿」があったとは想像もしていなかった。
しかし、である。海から遠いこの場所からわざわざ船に乗って行くなどというのは、相当な決断が必要なことだろう。壬生さんが振り返る。
「そうだべな。海で遊んだこともないだろうし、たぶん船に乗った経験すらなかっただろう。船酔いも初めて経験したろうし、時化の海の怖さも知らなかったろうに。だけど貧しさから抜け出すために、命を懸けて捕鯨船に乗ったんだろうなぁ。当時は『南氷洋出稼ぎ捕鯨』って言われてさ、親戚中、南氷洋へ出稼ぎに行く一族もいたんだよ。漁が終わって日本に帰ってきた船員たちはクジラの身をお土産に持って、ここらあたりでは『クジラ汁』という鍋料理が流行ったもので、オラも食った。今では八戸市内にクジラ汁を出すお店もあるから」
国際的に鯨の禁漁が決まってからは、南氷洋へ捕鯨に行くことも禁じられた。
そして南郷歴史民俗資料館では2年前に、捕鯨に焦点を当てる展示会を開いた。
「この地から大勢の方が南氷洋で捕鯨に従事したことは、人々の記憶から薄れています。なんとかその記録を残そうとした企画だったのですが、あまり関心がなさそうで、入場者数が少なかったのは残念でした。その企画で、捕鯨に従事した方3人に出席していただいて、当時の話をしていただきました」(館員)
90歳を超えた人が当時の話をしたというから、貴重なものだった。それを再現してみる。
「ここからバスで東北線の尻内駅(現在のJR東北新幹線八戸駅)へ向かい、そこから電車で横浜の港に停泊していた船団に乗り込んで南氷洋を目指しました。大海原を航海して南極近くまで行くんですから、スケールの大きな仕事でワクワクする気持ちがありました。一番の楽しみは、赤道を越える時の『赤道祭り』です。芸達者の船員が歌ったり、寸劇をしたりね。相撲の初っ切りをする船員もいて、大ウケしたもんです。捕鯨業界ではオラたちは『八戸組』と言われて、一目置かれていたんです。他にも『鮎川組』など、出身地の名前が付けられていましてね。『八戸組』は最大でした」
だいたい5隻でひとつの船団が組まれていたが、約1500人が従事していたという。
仕事は8時間の2交代制で、労働時間は管理されている。仕事はきつかったが、無茶な重労働ではなかった。だから20年間も続けて従事したという人も珍しくはない。
遠洋捕鯨が禁止になってから、その功績を称える意味合いもあって、捕鯨砲がマルハニチロから町に寄付されたというのである。
戦後の食糧難の時代、日本人のタンパク質補給を支えていたのがクジラだった。給食にクジラが出ることも珍しくはなかった時代で、大げさに言うのなら、それを支えていたのがこの地であったというのは感慨無量である。
なんともスケールの大きな話がこんな山の中に眠っていたとは、思ってもいなかった。
(深山渓)