男子禁制の大奥女中や大名家の女中59人とイタシまくって断罪、すなわち打ち首になった希代の破戒僧がいる。江戸・日暮里にある日蓮宗の第16代住職・日道(日潤ともいう)だ。
役者上がりとも初代・尾上菊五郎の息子だったともいわれる日道は寛政8年(1796年)に32歳で住職になったが、評判のイケメンだった。
延命院は徳川家3代将軍・家光の側室だったお楽の方が帰依し、そのおかげで嫡男・竹千代(4代将軍・家綱)を授かった、子宝に恵まれる寺として知られていた。このため、将軍の世継ぎを待望する大奥からは、御台所や側室に代わって奥女中が代参する、泊まりがけの祈願「通夜参籠」をすることが珍しくはなかった。
11代将軍・家斉の嫡男・家慶の御殿女中・梅村なども、お付きの女中・ころを伴って代参と称し、延命院に熱心に通ったほどだ。
ところが代参というのは、真っ赤な嘘。日道と奥女中たちは日々、男女の情交にふけっていたのだ。当初はかわら版が面白おかしく書いたウワサ話程度だったが、当時の寺社奉行・脇坂安董が証拠を手に入れるため、おとり調査を開始した。家臣の身内の娘を、延命寺に通わせたのである。
情交用に設けた隠し部屋に招かれ、男女の関係を持った娘は、大奥女中と日道がやりとりしていたラブレターを入手した。証拠をつかんだ安董は享和3年(1803年)5月26日未明、手勢80人を率いて延命院を強制捜索し、日道ほか数人の僧と20人ほどの女を一網打尽にした。
取り調べの結果、大奥部屋方下女・ころと密通し、妊娠・堕胎させた件、また大名屋敷に勤める複数の女中と関係を結んだ件が僧にあるまじき行為とされ、日道は死罪となった。
ころ以外の大奥女中の処分は、コトの重大さからうやむやになったが、「大名屋敷に勤める女中」のうち、御三家尾張家の初瀬、御三卿一橋家の奥女中はな、ゆいの3人には無期限の自宅謹慎処分が下った。
日道は同年7月29日に斬罪となったが、女犯の罪を犯した僧として刑の執行前、日本橋のたもとで数日間、さらし者になっている。
当時の「かわら版」などによると、相手をした女性はなんと59人を数えたという。この大奥を揺るがす情交スキャンダルは「延命院事件」と呼ばれ、のちに歌舞伎の題材にもなっている。
(道嶋慶)