げに恐ろしきは男の嫉妬心か。
冤罪によって一族郎党もろとも粛清された、江戸中期の武士がいる。桑名藩・久松松平家の家臣、野村増右衛門だ。正保4年(1647年)生まれの野村は当初、郡代の手代で8石2人扶持、現在の価値にして年収100万円程度の超下級武士だった。
ところが文武両道に秀でていたため、藩主・松平定重に重用され、トントン拍子に出世。元禄9年(1696年)には750石、今のレートで年収1億円の、地方行政官のトップである郡代になった。
当時、財政が逼迫していた桑名藩で、野村は藩主の親戚筋にあたる門閥家老に代わって藩政の中心となる。そして元禄14年(1701年)の大火で焼失した城郭、ならびに城下の復興再建や地場産業の開発などに寄与する政策を実施。さらに藩士の給与を半減、農民には増税を課した。
ところが宝永7年(1710年)3月、藩金2万両を調達するため江戸に向かった野村に、公金横領や農民に対する搾取、豪華な私生活、一族親族の登用など、十数カ条におよぶ嫌疑がかかる。逐一、弁明したが、会計に関するささいな間違いも発覚。それが有罪の根拠となり、死罪を宣告された。
同年5月29日、野村は足軽目付の松尾平太夫によって、打ち首になった。享年65。
長男の兵橘、次男の政次郎、2歳から6歳の幼児12名(養子も含む)、80歳を超す野村の老母ら一族44人も死刑になった。処刑には打ち首だけでなく「差殺す」などもあったという。
死罪になった44人は重罪人扱いだったため、墓を作ることも供養することも許されなかった。
野村と親しいだけで追放になった人間もおり、関係者の処分に至っては、370人余(一説には571人)に及んだ。
この江戸時代でも類を見ない大粛清事件は「野村騒動」と呼ばれるが、実は冤罪であり、ないがしろにされた門閥家老らの嫉妬が原因によるものだった。
この騒動は幕府の耳に入り、藩主・定重は越後高田藩に移封されるという、事実上の左遷処分となっている。
騒動から113年経った文政6年(1823年)、10代藩主・松平定永(久松松平家10代)が再び桑名藩に戻ると、野村騒動で罪を得た野村や一族関係者に対して赦免の沙汰が下り、供養塔が建てられた。
(道嶋慶)