菅原文太が初めて東映で主演した作品は、昭和44年2月封切りの降旗康男監督の「現代や○ざ 与太者の掟」。共演は待田京介、藤純子、若山富三郎だった。
竹垣氏がこう言う。
「私があとから聞いた話では、本当は待田京介主演の予定で、『恐喝の街』というタイトルまで決まっていたのが、若山は『オレはギャラはいらんから文太を男にしたってくれ』と俊藤プロデューサーに掛けあい、主役が交代になったという話でした。実際、若山はこの作品に特別出演し、珍しく『夜霧に消えたチャコ』という歌まで披露してるぐらいですから」
真偽のほどは定かではないが、幻の作品となった待田京介主演の「恐喝の街」はポスターが先行してできあがっていたようで、竹垣氏はそれを姫路の大劇という映画館で見たことをはっきり記憶しているという。
俊藤プロデューサー自身、こう述べている。
〈あとで考えたら、文太はタイミングが良かった。主役をやれるやつは誰かいないか、誰かいないかと思うてるときに、彼がうまくぐぐっと出てきたから。もしもそうじゃなかったら、文太の位置に待田京介を持ってきたやろう〉(前掲書)
かくて文太は35歳で東映初主演のチャンスをつかんだのである。この初主演作「現代や○ざ 与太者の掟」は「与太者」シリーズとして昭和47年(1972年)5月の「現代や○ざ 人斬り与太」まで計6本作られる。文太のここでの役どころは、一匹狼の愚連隊として組織に牙をむく反逆児、〈なぜ吠える なぜ暴れるか 野良犬文太!〉の惹句に代表されるようなキャラで、鶴田、高倉路線とは一線を画した。
ちなみに〈文太、どうした、その手の傷は?〉〈この人生の裏道をジッと見つめてドス抜いた 文太、泣いているよな憎い顔(ツラ)〉といった文太主演作のポスターの惹句に、高校生だった自分たちは最高にシビれたものだった(余談だが、当時の大学闘争の担い手の一派である共産主義者同盟(ブント)の連中は文太をブントと読み換え、〈ブント、どうした、その手の傷は?〉というふうに、組織に立ち向かう文太の姿を自分たちの闘いとダブらせ、やにさがっていたという)。
「与太者の掟」と同じ年の11月に封切られたのが、鈴木則文監督の文太主演作「関東テキヤ一家」。これはほぼ従来の正調任侠路線に沿った作品で、シリーズ化され、昭和46年12月の「関東テキヤ一家 浅草の代紋」まで計5本続いた。
それまでの任侠作品とはまるで異質な、むしろそのパロディともいえるような変わった任侠映画が、「関東テキヤ一家」シリーズが終わったこの年6月、文太主演、中島貞夫監督で封切られた。文太は水を得た魚のようにビビッドに演じ、その個性が際だっている。「懲役太郎 まむしの兄弟」で、ただちにシリーズ化され、9本まで作られる人気シリーズとなった。
刑務所を出たり入ったりしている“懲役太郎”の愚連隊コンビ──文太と川地民夫の“まむしの兄弟”が神戸で暴れまくる話なのだが、決してカッコよくはなく、やることなすことズッコケぶりを発揮する。文太は徹底して三枚目に近い二枚目半を演じているのだが、このキャラはまぎれもなく後の「トラック野郎」に通じるものであったろう。