クワッと目を見開いて、たとえ相手が親分だろうが、激情をぶつけまくる──。実録極道映画で見せた菅原文太の姿は、晩年に尽力した社会的活動の姿勢そのままだ。生前に残していた未公開肉声の封印を解きながら、「反骨役者人生」の真実に迫る!
「何なんでしょうかねえ‥‥いろいろ意味づけをする人はいるけど、まあ、単純に作品がおもしろいからじゃないかな」
実録極道映画の金字塔──というより、戦後日本映画の不朽の名作で、主役の菅原文太を一躍スターダムに押しあげた代表作として知られる「仁義なき戦い」。今に至る同作品の根強い人気の秘密は何だろうか?
今から11年前の平成15年(2003年)2月某日、筆者は菅原文太氏にインタビューできる機会があって、この質問を直接本人にぶつけたところ、返ってきた答えが冒頭のものだった。物書きやジャーナリスト以上に理屈っぽい映画人を数多く見聞きしてきており、文太氏に対しても読書家で理論家とのイメージが強かっただけに「仁義なき戦い」について、
「理屈はいらない。おもしろいから(観客に)受けた」
との明快な答えは、どんな難しい話が飛び出してくるかと身構えていた当方をホッとさせ、わが意を得たりとの思いを強くしたものだった。
もっとも、氏の話が、深作欣二監督や脚本を書いた笠原和夫、川谷拓三や室田日出男など、いわゆるピラニア軍団と称された俳優たちに及んだとき、なぜ「仁義なき戦い」という傑作が生まれたのか、その秘密の一端がうかがえるような話になったのはむしろ当然で、興味は尽きなかった。
「仁義なき戦い」は、それまで東京撮影所でしか撮っていなかった深作欣二にとって初めての京都撮影所作品。東映の東撮と京撮はいわばライバル関係にあり、当時の京撮には、
「なんで『仁義なき戦い』を深作に撮らすんや」
といった空気も流れていたといわれる。
が、深作はそれで怖気づくようなタイプではなく、逆に深作流のバイタリティに満ちたエネルギッシュな仕事ぶりは、京都撮影所の雰囲気をも変えてしまったという。
「あの人は物怖じしない人だから(笑)。初めての陣営に乗りこんで、結構最初から平気でマイペースを通しきってたからね。そこらはたいした監督だったなあ」
とは文太の弁で、深作監督の撮影現場についても、
「まあ、じっとしてないんだ。檻の中のクマやライオンみたいにウロウロ歩いて、現場の机のコップ一つでも置き直したりね。カメラ据えたらのぞいて、『おい足らんぞ。映像が薄いぞ』と。やっぱり濃密なものを求めていた。一枚一枚のカットにね。
オレなんかもそういうのが好きだから。ただ顔を映されるというのはあまり好きじゃないほうだから。いろんな夾雑物〈きょうざつぶつ〉(混じり込んでいる不必要な物)がある中で動いたり映ったりするほうがおもしろいじゃないですか。そういう点では一致したんだね、オレと深作〈サク〉さんの感覚は。サクさんはカメラ台の上にカメラをほとんど置かなかったから。全部手持ちでやらしてた。だから、いつも画面が揺れていて、『それ、もっと動け! おまえ、動かなきゃダメだ!』って」
と当時を懐かしがった。
◆作家・山平重樹