人生100年時代といわれ、超高齢化社会に突入しつつある令和ニッポン。「臨終」をどう迎えるかは、現代人に共通する切実かつ身近なテーマである。遺言や葬儀のアレコレ、財産分与、「自分史」を子や孫にどう伝えればいいのか等々、「終活」に関心が集まっている。歴史家・河合敦氏の最新刊『戦国武将臨終図巻』に登場する武将たちの生き様死に様から「臨終の作法」を学ぶ。
戦国武将は常住坐臥、死と隣り合わせに生きる。そして、死は唐突に予期せぬ形で訪れる。
突然の死に織田信長は天を仰いだろうか‥‥。
中国の毛利攻めにあたっていた羽柴秀吉の援軍に向かうため、わずかな供だけを連れて京都・本能寺に滞在していた信長は、家臣の明智光秀の軍勢に奇襲される。信長は弓矢を放ち槍を取って応戦するも、多勢に無勢、もはやこれまでと悟って、紅蓮の炎の中で切腹して果てたとされる。
「あと1年か2年の時間があれば、間違いなく天下統一を成し遂げていたはず。まさか自分の庭のような京都で、一番信頼する部下に裏切られ49歳で命を落としてしまうとは、信長も‥‥」
と、河合敦氏。
明智光秀はなぜ謀反を起こしたのか、「本能寺の変」は戦国時代最大のミステリーだが、部下の気持ちが読めていなかったことが、最大の理由だろう。
「森蘭丸から信長が光秀の謀反を知らされた時、『是非に及ばず』と応じたエピソードが有名です。従来『仕方ない』というふうに解釈されてきましたが、最近の学説では『ウソだろ!』という意味合いだという説を唱える人もいます。今風に言えば『えっ? マジか!』といったところでしょうか」
幸村の名で知られる真田信繁の最期はといえば、
「大坂夏の陣では、16万とも18万ともいわれた兵力の徳川軍に対して、豊臣軍はわずか5万、3倍もの兵力差がありました。天王寺近くの茶臼山に陣を張った信繁は、大坂城にいる豊臣秀頼の出馬を何度も要請しますが、秀頼は出て来ず、家康本陣への突入を敢行します。多くの犠牲を出しながらも、あと一息で徳川家康の首を取れるほどに迫ります。この時、家康は『俺は死ぬ、俺は死ぬ』と絶望して切腹を覚悟したと言われています。しかし、信繁はついに力尽きて、休息していたところに敵の武将たちが殺到、信繁は覚悟して、敵の武将に『(首を取って)手柄にするがよい』とつぶやいて首を掻き切られて死にます」
死を覚悟しての潔い死だ。一方、関ヶ原から敗走した石田三成だが、逃亡は再挙して豊臣再興を図るためだったとされる。結局、捕まって処刑されることになるが、最後の最後まであきらめない三成の姿勢もまた、見事な死に様には違いない。
信仰に殉じた武将もいた。
戦国武将には、キリスト教に入信したキリシタン大名もいた。多くが信仰のためというより、ヨーロッパの進んだ技術や文明を手に入れるためキリシタンになったケースだった。
しかし高山右近は、大名の地位も名誉も打ち捨てて、信仰を一途に貫いた。摂津(大坂)の高槻城主で、信長、秀吉に仕え、数々の戦功を挙げながら、ついに家康によって国外追放となり、ルソン島マニラ(フィリピン)へ渡る。マニラでは歓迎を受けたが、過酷な船旅の疲労からマラリアに罹患し死去した。
「右近はキリスト教を心から信仰して、他の大名に布教したり、マニラでの死去後、現地で盛大な葬儀が行われ宗教者として尊敬を集めました」
河合敦著『戦国武将臨終図巻』(徳間書店刊)。本誌好評連載中の『真説!日本史傑物伝』特別編、待望の書籍化。従来の通説を覆す最新の研究成果と発見が自在に展開される「真説」『戦国武将臨終図巻』である。