現役時代に投手と打者として対峙し、監督でも覇権を争った巨人の原辰徳球団特別顧問は、没後の取材で星野氏をこう評している。
「仏と勝負の鬼という両極端の顔を持っていました。私の知るかぎり、いちばん強い気合いの持ち主でした」
スポーツ紙デスクが、二人の関係を解説する。
「原さんは03年に一度、巨人の監督を辞めた時、フロントとの不和で東京ドームではセレモニーをしてもらえなかった。不憫に思った星野さんは、シーズン最終戦の巨人戦終了後に花束を用意させ、甲子園で退任セレモニーを開いて『もう一度勉強して戻ってこい』と声をかけています。原さんはその気遣いにいたく感動していたんです」
今回の取材でも、原氏は自宅でただ答えるのではなく、ちゃんとスーツに着替えてネクタイを締めてから応じたという。尊敬する先達への経緯がそうさせたのだろう。
原氏が言うように、グラウンドでは“鬼”でも、裏では“仏”の顔を見せていた。例えば自分に尽くした選手やスタッフたちには、引退後も球団職員や打撃投手などの“再就職先”を必ず用意したという。
「他にも、誰かが交通事故や女性関係のトラブルを起こしても、全て星野さんが間に入って解決したと聞きました。阪神や楽天のお偉方も、かなり世話になっていたという話です」(スポーツ紙デスク)
鉄拳制裁を行っても求心力が落ちなかったのは、こうした球界一の親分肌だったことにもよる。
今年の正月、大学時代から苦楽を共にした親友・田淵幸一氏に送ったメールに、星野氏は次のような文章をつづったという。
〈おめでとう↓↓↓まだまだ体調戻らない!?歩くのトボトボ悲しいもの。娘の家で静養↓↓↓早く元気にしてゴルフできるよ頑張ります!いつもありがとう!〉(原文ママ)
星野氏にごく近しい関係者が、「最期の闘い」に挑んでいた姿を伝える。
「亡くなる直前のメールの内容でもわかると思いますが、本人はまだまだ闘い、回復するつもりでした。なにしろ12月に入ってから、インフルエンザの予防注射まで打ったほど。死期を悟った病人のすることじゃありません。残念ながら屈してしまいましたが、ガン発覚時には『余命90日』と言われたのに、1年半も頑張ってくれた。最後まで星野仙一という男を全うしたと、私たちは思っています」
高山氏もまた、生涯を野球にかけた男の、ありし日の姿を振り返る。
「お偉いさんにも女性にもモテた人だったけど、結局野球がいちばん好きで、野球に一生懸命でしたね。『アメリカのマイナー球団を買って、そこで日本人選手を育成しようと思ってる』とか『巨人の誘いに乗らずに、楽天に行って本当によかった。俺の野球人生には悔いがない』とか、そういう話をしている時がいちばんうれしそうでした」
ホーム球場・楽天生命パーク宮城では、1月7日から3日間にわたって設置された献花台にファンが花を手向けた。献花台は楽天のキャンプ地、オープン戦開催球場に続けて設置されることも決まっている。3月10日には、甲子園で阪神と中日が対戦する「星野仙一追悼試合」も開催されることになった。合掌。