2018年、日本のスポーツ界はショッキングな出来事で幕を開けた。星野仙一さんの膵臓癌による早すぎる逝去。享年70歳。
現役投手時代は通算146勝という成績以上に、ドラフト指名を約束しながら裏切った巨人を相手にリベンジの大活躍。「燃える男」として人気を集めた。
また監督としては、中日、阪神、楽天を率いてリーグ優勝。3チームで優勝した監督は、他に三原脩(巨人・西鉄・大洋)と西本幸雄(大毎・阪急・近鉄)だけ。しかし、これまたそんな記録以上に、2011年の東日本大震災の直前に仙台を本拠地とする楽天の監督に就任し、2年後にチームをリーグ優勝。さらに日本シリーズで巨人を倒し、日本一となって東北地方の被災者を元気づけたことこそ、永遠に語り継がれる見事な結果と言えるだろう。
彼は長嶋茂雄氏と同様、記録よりも記憶に残るスーパースターだった。
私は、星野さんと長い間一緒に仕事をさせていただいた。現役引退後、テレビや新聞で野球解説者として活躍されていたときには、雑誌『ナンバー』で、何度か彼の原稿をまとめる役割を任された。1985年に阪神タイガースが21年ぶりの優勝を果たしたときは、当時の主力打者の掛布と岡田と星野さんの座談会を原稿にしたこともあった。
そんな縁で中日の監督に就任された後は(それは彼が39歳のとき。日本のプロ野球史上初の戦後生まれの監督の誕生だった)、毎シーズン、春のキャンプや優勝争いの山場の時などの節目で、何度もインタヴューさせていただき、就任2年目に初のリーグ優勝を果たしたときに、『超ロングインタヴュー「監督論」星野仙一の戦略と戦術』(ネスコ出版)と題した一冊にまとめさせていただいた。
星野さんは言葉の使い方が実に見事で、また、どんな質問にも隠したり誤魔化したりすることなく、真剣に答えて下さった。監督として選手をよく殴ったことについても、「監督賞」というルール違反の報奨金を出していたことについても、また明治大学野球部の島岡吉郎監督や巨人の川上哲治監督などの長老の方々から可愛がられ、陰で「爺殺し」と言われていたことについても‥‥何を聞いてもイヤな顔を見せず、時には冗談も交えながら真剣に答えてくれた。たとえば‥‥。
「ジジゴロシ? どうせなら女殺しと言ってくれよ。おれは、いずれは監督をやるつもりだったから、球界の先輩だけじゃなく、経済界やいろんな先輩の方々に、聞きたいことをぶつけただけ。自分の出世に利用しようといった下心があれば、すぐに見透かされるよ」
私自身、星野さんにはたくさんのことを教えていただいたが、一度だけ灰皿を投げつけられたこともあった。それは中日の監督になって4年目の春の沖縄キャンプでのこと。当時、週刊誌に何かと批判されてマスコミ不信に陥った彼は、一部の信頼しているマスコミ人しか相手にしなくなった。
それを、そんな度量の狭いことじゃダメだと、ホテルの監督室で諭したところが、星野さんは「ウルサイ!」と一喝し、目の前のテーブルの上の大きなクリスタルグラス製の灰皿を私めがけて投げつけた。
灰皿は私の身体を1メートル以上外れて壁を直撃。彼が本気で私を狙ったのでないことはすぐにわかった。そこで私は冷静に、「マスコミの記者を選別する基準はあるのですか?」と聞いた。すると──、
「これがお父さんの書いた原稿だ、と自分の息子に堂々と見せることのできるヤツとしか、俺は話をせん!」
この言葉を、私は今も座右の銘にしている。合掌。
玉木正之