同時期にデビューした野口五郎、郷ひろみとともに「新御三家」と呼ばれ、人気を三分した。
「僕がコーラで五郎がクリームソーダ、そしてひろみがオレンジジュースという色分けだったね」
週刊アサヒ芸能2007年のインタビューで、西城は冷静にこう分析している。一般には西城=ワイルドな運動神経、野口=高い歌唱力、郷=甘いアイドル性と思われていたが、実は西城は音楽への取り組みになみなみならぬ非凡な才能を発揮。13年、週刊アサヒ芸能に自身がこう語っている。
「ニューヨークで流れていたヴィレッジ・ピープルの『YMCA』を、いち早く日本で歌おうという話になって。ただ、原曲はゲイ讃歌だから、それを健全な歌詞に変え、それに加えて子供からお年寄りまで踊れる振り付けをつけたのが『YOUNG MAN』になったんだ」
西城はカバー曲だけでなく、大人の楽曲にも取り組んでゆく。転機となった78年の「ブーツをぬいで朝食を」は、作詞・阿久悠、作曲・大野克夫コンビの佳曲だが、これに大野と組むことが多かった沢田研二が噛みついた。
「なんであんないい曲を秀樹にあげたんだ!」
伝え聞いた西城は苦笑いするしかなかったという。
西城が活躍した70年代は歌謡曲の黄金期であったが、もともと洋楽志向だった西城は一度も歌謡曲という表現を使わず、常に「日本のポップス」を標榜。BOOWYの氷室京介など、ロック系にも影響を受けたアーティストは数多い。
ライブにおいては、日本初のソロによる日本武道館やスタジアムコンサートを開催し、アジア各国にも異例の進出を果たした。
西城は、河合奈保子や石川秀美などを「秀樹の妹コンテスト」から世に送り出したが、事務所の後輩である浅田美代子もその一人。マネージャーと車で移動している際に見かけた女子高生の浅田を「すぐにスカウトしたほうがいい」と眼力の高さを示している。
01年に美紀夫人と華燭の典を挙げるまで、ウワサになったのは十朱幸代との熱愛騒動くらい。だが、82年にドラマで共演した桃井かおりは西城に引かれ、親族に「恋人なの」と紹介したというエピソードも残るほどだった。
芸能界のキャリアは50年近いが、西城ほど陰口を叩かれないタイプも珍しい。まだ未成年の子供たちのためにも再起を図ったが、ついに病魔には勝てなかった。傷だらけでも運命を呪わなかった15年の闘病に、あらためて合掌である。