憲政史上最長の総理大臣在任期間2886日という「レコード・ホルダー」である桂太郎は、一方で誰にでも愛想がよく、周囲への気配りも抜群、ニコニコ笑いながら相手の背中をポンと叩くという親しみを感じさせる人心収攬(しゅうらん)術にたけていたことで、「ニコポン宰相」との異名があった。
陸軍出身の桂は、軍政家として知られ、政治的にも強力なリーダーシップを発揮していた山県有朋の右腕だったことから、長州および陸軍閥を背景とした強固な政治基盤があったことも、「レコード・ホルダー」たる背景であった。
しかし、何より、山県のもとで「ニコポン」に代表される徹底した人心収攬術を発揮したことが長期政権につながった。山県との関係は、何やらほぼ1世紀を隔てての田中角栄と、その下で天下を夢見、“雑巾掛け”に耐え、一方で卓越した調整力、実務能力を見せつけ、ついには総理の座に就いた竹下登とダブるのである。
竹下はこれ我慢、辛抱のもと、内心は負けん気が強いものの表には一切出さず、いつも穏やかでニコニコ。相手の話をまず聞くという愛想のよさは、まさに知る人ぞ知るというところだった。そのうえで、なお熟慮を重ね、懸案事項を落とし所に落とすなど、安定感抜群の人物だった。
一方の桂も、「言葉の催眠術師」と言われたくらいだったから、本来なら寸鉄人を刺すくらいの言葉遣いはお手のものだったが、竹下同様、徹底してひとの話をまず聞いた。初孫であった桂広太郎(のちに「桂化学」社長)は、勉強家にして繊細だった桂の横顔を、次のように語っている。
「祖父の書斎には、ドイツ語の政治や軍部の本がびっしり並んでおり、後年その原書を手にしてみると、アンダーラインと書き込みだらけで驚かされた。家庭での暮らしぶりも穏やか、かつ緻密な日々だった。例えば、懐中時計のリューズを巻くときもセカセカと巻くことなく、ゆっくりゆっくり心を込めて巻いていた。
そういう性格は政権運営にも現れていたと見え、元老、政党、財閥などの力を巧みに取り入れて政治を進めたようだった。それらは、皆、個性が強かったが、祖父はその間にあって調整、彼らの意見対立を巧みにまとめ上げていったということのようだ」『歴史読本』(昭和54年12月号・新人物往来社=要約)
陸軍を一貫して歩んだ桂が内閣を率いることになったのは、陸軍大臣を務めた直後であった。行き詰まった伊藤内閣のあと、山県が強く推しての総理大臣就任であった。その長期政権は都合第三次内閣まで続いたが、筆者の実績評価は功績六分、四分の失点とさせていただいている。
第一次内閣は実に4年6カ月に及んだが、その発足時は「小山県内閣」のカゲ口があった。元老は一人も入閣せず、ほとんどの閣僚が山県の息のかかった官僚たちだったからだ。
しかし、桂はリーダーシップを発揮してみせた。伊藤博文らの反対を押し切って「日英同盟」を締結、それまでのロシアとの二股外交にピリオドを打って、日露戦争に全力を挙げた。一方で奉天会戦、日本海海戦の勝利をもって講和に踏み切ってみせるなど、勇断を示したのであった。
しかし、米国ポーツマスでの講和会議で日本が“戦勝国”であるのに賠償金なしで推移したことに世論が反発、ポーツマス条約締結反対の国民大会が開かれる一方、警察署、電車が焼き打ちにあうなどの暴動となり、死傷者600人近くが出る事態を招いたのであった。桂は初の「戒厳令」を施行する事態を招いてしまったのだった。
■桂太郎の略歴
弘化5年(1848)1月4日、長門国(山口県)萩城下の生まれ。ドイツ駐在武官、台湾総督を経て、第三次伊藤、第一次大隈、第二次山県、第四次伊藤の各内閣で陸相。53歳で首相。在任期間7年11カ月は歴代最長。大正2年(1913)10月10日。胃ガンのため65歳で死去。
総理大臣歴:第11代1901年6月2日~1906年1月7日、第13代1908年7月14日~1911年8月30日、第15代1912年12月21日~1913年2月20日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。