犬養が総理大臣に担ぎ上げられたのは、浜口雄幸総理が狙撃され、その後の若槻礼次郎内閣が満州事変の勃発を機に総辞職を余儀なくされたことにあった。
一方で、政界に圧倒的なにらみを利かせていた元老の西園寺公望が満州事変を憂慮、中国との話し合いのためにはパイプのある犬養が総理に最適として天皇に推薦したことが大きかった。天皇からは、「軍部が国政、外交に立ち入るのはすこぶる深憂に堪えない」と異例の“注文”が出たが、ここで犬養は西園寺に「(その点は)十分了解」と答えた。しかし、結果的にこの「十分了解」は、優柔不断で終わることになったのだった。
その犬養内閣の政策課題は、二つあった。一つは、折からの「昭和恐慌」の経済・財政の立て直しと「産業立国」化、もう一つが満州事変の処理であった。
前者は「財政通」の高橋是清を蔵相に起用したが、不況からの脱出までは至らなかった。とりわけ、農村の疲弊に代表される不況を前に産業奨励することで、自給率の向上、輸出の促進による経済の活性化を目指したものだったが、金輸出の再禁止による円安、物価高で不況脱出とはならなかったのだった。
また、後者については、満州事変そして満州国建国宣言と軍部がエスカレートしていく中で、中国では激しい抗日運動が起こり、中国人の死者、行方不明者を2万人も出す事態になった。結局、ここでも犬養は「満州国承認」に明瞭な態度を示せず、これも優柔不断に終始したということだった。
こうした中で、「五・一五事件」が勃発した。好転せぬ不況、財閥など支配層への不満、金権など政治・腐敗を繰り返す政党など、積もり積もっての不満による「体制改革」「国家革新」を目指した青年将校たちの決起ということのようであった。
首相官邸に踏み込んだ将校たちと犬養の間の、「話せばわかる」「問答無用」の短いやりとりの中で、犬養はこめかみと腹部に銃弾を受け、その日の夜、絶命を余儀なくされた。総理在任わずか156日、享年77であった。
■犬養毅の略歴
安政2(1855)年4月20日、備中国(びっちゅうのくに・岡山県)庭瀬(にわせ)生まれ。第1回衆院選で当選(以降、18回連続当選)。立憲国民党結成、政友会総裁を経て、外相兼務で内閣組織。総理就任時、76歳。昭和7(1932)年「五・一五事件」で青年将校に射殺される。享年77。
総理大臣歴:第29代1931年12月13日~1932年5月16日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。