近衛文麿退陣後、日米開戦を決断、「悪の権化」視された東条英機が総理大臣に就任するまで、次のような政権の動きがあった。
近衛文麿の第一次内閣が、「日独伊防共協定」の強化問題などの難航で政権を放棄したあと、近衛の強い推薦で後継総理となったのは、わが国初の司法界出身の平沼騏一郎だった。
平沼は国粋主義を信奉、しばしば「鬼検事」として政党政治に混乱を持ち込んだ。政権に就いたあと、「独ソ不可侵条約」の締結に際し、「欧州情勢は複雑怪奇」の“名文句”を残したうえで辞職した。
その平沼の退陣を受けて担ぎ出されたのは、人柄はよかった陸軍の長老で「派閥抗争のラチ外」「政治的無色」が幸いした阿部信行だったが。しかし、一国のリーダーとしてはあまりの力不足を露呈、半年ももたずに退陣を余儀なくされた。
阿部の後継は「海軍英米派のエース」とされた米内光政だったが、「日独伊三国同盟」に抵抗したものの陸軍の反発強く、阿部同様に約半年の短命政権で終わっている。
そうした中で、第三次近衛内閣退陣を受けて総理に推されたのは、米国との開戦に踏み切ったうえ、敗戦後は最高戦争責任者として絞首台の露と消えた東条英機だった。
東条の総理就任は、昭和天皇側近の木戸幸一内相の狙いの中で決まった。木戸には「統制派」を中心とする陸軍の最大実力者だった東条を総理とすることで、「皇道派」を含めた陸軍の開戦への意向を阻止できるだろうとの期待感があった。また、東条が天皇への忠誠心に富み、天皇もまた東条への信任が厚かったことも背景だった。
しかし、期待は裏切られ、東条自身は戦争という大事を前にしての一国のトップリーダーとしての先見力、洞察力に乏しく、ズルズルと太平洋戦争の泥沼にはまり込んでいったのだった。陸軍官僚時代は、「カミソリ東条」と言われたように有能で、上司に対して忠誠心厚く、部下に対しても配慮を怠らずの、上からも下からも人望は厚かったが、トップリーダーとしての重みには耐えられなかったということのようだった。
東条が総理となる頃、世の流れは太平洋戦争に向け、すでに引き返せない段階にあった。しかし、東条は天皇の意向に添い、ギリギリまで戦争回避を目指して対米交渉に奔走した。しかし、交渉は米国側の受け入れ難い過大な要求はのめずで決裂、開戦は避けられないものとなっていった。この局面で、東条は人目もはばからず、無念の涙を流したとされている。
日米開戦は緒戦の真珠湾攻撃、マレー沖海戦などで勝利となり、結果的にはこれが災いした形で戦争終結への方策を欠いてしまった。やがて、戦運は暗転、利あらずしてのサイパン陥落により、日本の敗色は色濃くなっていった。
これにより、一方で独裁色を強めた東条内閣への倒閣運動も活発化した。東条は内閣改造でこれを凌ごうとしたが、これを果たせず、総辞職に追い込まれた。緒戦の勝利をもって戦争終結へ向けて舵を切る東条の英断があれば、「泥沼」に陥ることに回避の余地があったかも知れなかったのだった。
■東条英機の略歴
明治17(1884)年12月30日、東京生まれ。陸軍大学校卒業。第二次・第三次近衛内閣陸相を経て内閣組織。参謀総長を兼任。総理就任時、57歳。A級戦犯として逮捕、極東国際軍事裁判で死刑判決。昭和23(1948)年12月23日、刑死。享年63。
総理大臣歴:第40代1941年10月18日~1944年7月22日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。