「近衛は弱いね」と、A級戦犯として東京裁判の軍事法廷に引き出される直前に服毒による自死を図った近衛文麿に対し、報告を受けた昭和天皇はポツリと言った。
その遺書(昭和20年12月15日に記した2男宛)の一部には、自らは戦争回避に全力を尽くしたが、「今犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思う」として、軍事法廷に引き出される屈辱感、無念が露わにされている。
そうした天皇いわくの近衛の「弱さ」は、政権運営で随所に見ることができる。すなわち、軍部に抗する姿勢、構えは見せるものの結局は次々に押し切られ、あげくこの国に戦争の道を走らせることになった。結果、若い頃、社会主義に影響を受け、本質的にはリベラル、穏健派、戦争を望まずの体質だったが、まったく裏腹な政権を余儀なくされたということだった。言うなら、第3次にわたった政権は、すべからくが「失態史」と言ってよかったのである。
第1次近衛内閣は、「二・二六事件」関係者の大赦でスタートした。ここでは早くも、一方で陸軍皇道派との関係が忖度された。また、そうした中で、日中戦争の発端となる「盧溝橋事件」が勃発すると、これを機に一気に「失態史」をスタートさせるのだった。
盧溝橋事件では、事件の「不拡大と現地解決」を閣議決定したまではよかったが、一方で現地が和平工作をやっているにも拘わらず、記者会見で「中国に対しては断固とした対応をする」と発言、閣内からも真意をいぶかる声が出たものだった。また、その後の「支那(上海)事変」勃発直後の閣議でも、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍不抜」をスローガンに掲げ、結果、南京を占領するや極めて高姿勢に「国民政府を相手とせず」との声明を出し、結局は対中和平の道を閉ざしてしまうといった具合である。
こうした“判断ミス”は、第2次内閣でも同様だった。「日中戦争」の解決は米国の了解が不可欠と時の松岡洋右外相に日米交渉に入らせたもののうまくいかず、その松岡が一方で「日独伊三国同盟」を推進したことにより、今度は米国をより刺激する形となったのだった。ここでは、近衛は「聞き上手」とよく言われたが、人の話に耳は傾けてもトップリーダーとしての閣僚らへの目配り、自らの情報分析能力も欠けていたことを示している。
また、この第2次内閣では既成政党に代わって軍部の内閣への影響力を抑えることを念頭に、「新体制」としての翼賛会運動に音頭をとったが、結局は思惑どおりには進まなかった。創立された「大政翼賛会」は右傾化の道を辿り、のちに近衛の後継となる東条英機内閣では、単なる国民統制機関に堕してしまった。当初、国民はこの「新体制」へ期待したが、その後のカジ取りに腕力を発揮せず、まったくの期待はずれに終わったということだった。
第3次内閣では、日米開戦回避を窺った。ために開戦には消極的な海軍の力を借りるべく外相に豊田貞次郎を起用したが日米交渉に進展なく、合わせて陸軍の開戦論に押し切られてしまうのである。
結果、近衛内閣は昭和16(1941)年10月、日米開戦、太平洋戦争勃発の2カ月前に総辞職を余儀なくされたのだった。また、その総辞職の直接の引き金は、海相の及川古志郎から「和戦」への決断を迫られた近衛が、「私は戦争には自信がない。自信のある人にやってもらわねばならぬ」と述べたことにあった。これをもって内閣を投げ出したということだったが、「胆力」まさにゼロが伝わってくる。
これら都合3次の内閣を検証してみると、近衛には閣僚の独走を戒めて自ら先頭に立って収拾に動く、あるいは総理として責任を取るといった形跡はほとんどなかったことがわかる。軽はずみな決断で、常に後悔がついて回る“貴公子内閣”だったと言えたのである。
■近衛文麿の略歴
明治24(1891)年10月12日、飯田橋生まれ。京都帝国大学在学中に世襲で貴族院議員。貴族院議長、訪米してフーバー、ルーズベルトの前・現大統領らと会見。大政翼賛会総裁をはさみ内閣組織。総理就任時、45歳。昭和20(1945)年12月16日、毒物により自殺。享年54。
総理大臣歴:第34代1937年6月4日~1939年1月5日、第38・39代1940年7月22日~1941年10月18日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。