●ゲスト:伊藤銀次(いとう・ぎんじ) 1950年、大阪府生まれ。72年、バンド「ごまのはえ」のシングル「留子ちゃんたら」でデビュー。大滝詠一にプロデュースを依頼したことを機に、はっぴいえんどの解散コンサートにバンド名を「ココナツ・バンク」に改名して出演。その後シュガー・ベイブに参加して「Down Town」を山下達郎と共作。76年には山下、大滝とアルバム「ナイアガラ・トライアングル Vol.1」を発表。77年、初のソロ・アルバム「Deadly Drive」をリリース。ソロ・アーティストとして活動しながら、アレンジャー/プロデューサーとして沢田研二、アン・ルイス、佐野元春、ウルフルズなど数々のアーティストを手がけるほか、89~90年には「三宅裕司のいかすバンド天国」(TBS系)で審査員も務めた。2007年から弾き語りライブ「I STANDALONE」を全国で開催すると同時に精力的にライブ活動を展開。17年には45周年のオリジナルアルバム「MAGIC TIME」をリリース。最新ミニアルバム「RAINBOWCHASER」(ベルウッド)発売中。
70年代から現在まで、ミュージシャン・プロデューサー・編曲家として日本のロック、J-POPシーンをリードしてきた伊藤銀次。「笑っていいとも!」テーマ曲の誕生秘話、「イカ天」審査員の思い出など、次々あふれるエピソードに、天才テリーも驚きが止まらない!
テリー はじめまして。ニューアルバム「RAINBOW CHASER」を聴かせていただきましたが、すごくよかったです。
銀次 ありがとうございます。気に入ってもらえたなら、うれしいですね。
テリー あらためて経歴を振り返ると、銀次さんは本当にすごい存在ですね。山下達郎さんが在籍したシュガー・ベイブの名曲「DOWN TOWN」を達郎さんと共作しているし、達郎さん・大滝詠一さんと伝説のアルバム「ナイアガラ・トライアングルVol.1」を制作、編曲でも沢田研二さんの「ストリッパー」、アン・ルイスさんの「六本木心中」など、たくさんのヒット曲を手がけていて。
銀次 そうですね、いろんな音楽や人との出会いがあって、今の僕があるんだと思います。
テリー ではまず、銀次さんと音楽の出会いはどんなところから。
銀次 幼い頃から「ザ・ヒット・パレード」なんかを楽しんではいましたが、決定的だったのは中学生の時「ビートルズが全英・全米で大騒ぎ」っていうニュースをテレビで見たことです。興味を持って、知り合いが持っていたシングル盤を借りて聴いた瞬間に、もうやられてしまいました。とにかく切なくて、激しくて‥‥そんな音楽に出会ったことはなかったんですよ。そこでビートルズ目当てで、ラジオの洋楽ヒットパレードなんかを聴くようになったんですが、他にもビーチ・ボーイズやローリング・ストーンズ、カンツォーネとかシャンソンみたいな、いろんなポピュラーミュージックを浴びるように聞きました。
テリー ギターはいつから弾き始めたんですか。
銀次 中学の頃からなんですが、エレキギターは高校入学のお祝いにグヤトーンの、当時いちばん安いギターとアンプを買ってもらったのが最初ですね。もう勉強そっちのけで本屋に教則本を買いに行ったんですが、これがもう全然使えなくて。
テリー えっ、どうしてですか。
銀次 あとで知ったんですが、ビートルズのキーは高すぎるから、わざわざ日本人向けに下げて書いていたんです。だから「キャント・バイ・ミー・ラヴ」なんて、そのまま弾くとオリジナルと違ってすごく悲しい曲になっちゃって(笑)、これはもうダメだと思って、自分でコピーすることに決めたんですよ。
テリー ええ~、すごい!やっぱり天才は違うなァ。
銀次 いえいえ、とにかく「あの曲が弾きたい!」の一心だったんです。これがまた、レコードにプレーヤーの針を落として、ジャッと聴こえた音をギターでひとつずつ探すという、解体新書みたいなやり方で。
テリー それは時間がかかるでしょう!
銀次 ええ、最初は1曲1カ月ぐらい。でも、それでだんだん耳が慣れてきて、どんな曲も、聴けばコピーできるようになったんです。当時、コードコピーできる人間が周りに誰もいなくて、4つぐらいバンドをかけ持ちしていましたよ(笑)。