テリー その頃から将来はミュージシャンになろうと決めていましたか。
銀次 もちろん憧れはあったんですが、高1の頃にはずっとアマチュアでいようと思っていました。
テリー えっ、そりゃまたどうして。
銀次 ザ・スパイダースやザ・タイガースみたいなグループサウンズ(GS)のバンドは、ライブでは海外のビート・バンドみたいなサウンドを演奏していたのに彼らのヒット曲ってどれも湿っぽい曲なんです。そういう方向の音楽性でないと日本では受けない、でも自分はもっと激しいロックがやりたい。だったら、プロは目指さなくてもいいなと。
テリー そういうことを高1で考えるなんて、早熟すぎますよ。
銀次 でも69年に「ウッドストック」があったり、ニューロック・ブームが起こったのをきっかけに「GSや歌謡曲じゃない、新しい音楽の世界が作れる」と若気の至りで思い込んじゃいまして、大学を辞めてセミプロみたいな感じになるんです。
テリー そこから東京に出て、大滝さんと会うことになるんですか。
銀次 そうです。その頃は「ごまのはえ」というバンドでレコードデビューをしていたんですが、まだまだ自分たちの音をどう作っていけばいいかわからなかったんです。その頃、いちばん海外のバンドに近い音を出していたのが「はっぴいえんど」で、そのメンバーだった大滝さんにダメもとでお願いしたら、わざわざ地元の大阪までライブを見に来てくれて、「東京に出てくるなら(プロデュースを)やってもいいよ」と。
テリー バンドとしても一大決心ですよね。
銀次 はい。そういう意味でも、僕の本当のスタートは大滝さんとの出会いからです。もっとも、あれこれあってバンドはほどなくして解散しちゃうんですが。
テリー でも、東京では達郎さんとの出会いもありましたしね。シュガー・ベイブにも、一時期在籍されていたんですよね。
銀次 ええ。でもあの頃、ああいう音楽はまったく売れなくて。みんなが騒ぎだしたのは、80年代に入って山下君や大滝さんの評価が定まってからですよ。
テリー 銀次さんも80年代に入って本格的なソロ活動に入るわけですが、ここで避けて通れないのが「笑っていいとも!」のテーマ曲「ウキウキWATCHING」ですね。作曲した曲が、30年以上も日本のお昼に流れ続けたなんて、すごいことじゃないですか。もはや国民ソングと言ってもいいくらいですよ。
銀次 本当ですよね、まさかあんなに続くとは思わなかったから自分でも驚きました。ちょうど昼時、おそば屋なんかに入って、そこのテレビで「いいとも!」が始まると、思わず「あの曲を作ったのは僕です!」なんて言いたくなる衝動に駆られたりしてね(笑)。
テリー どういうきっかけで、作曲することになったんですか。
銀次 もう亡くなられましたけれど、ナイアガラ・トライアングルがとても好きなフジテレビのプロデューサー・横澤彪さんがじきじきに僕の事務所に来てくださって、「『笑ってる場合ですよ!』を終わらせて、タモリを昼間のスターにする。彼がいいとも青年隊の3人とオープニングで踊りながら歌える曲を書いてください」という発注をしてくれたんです。