「アイツは宗教家だから、ワシらが動くしかない」
「盟友」大平正芳が初めて名乗りを挙げた昭和53(1978)年11月の自民党総裁選で、田中角栄は田中派を総動員させ、「大平勝利」に全力投球した。首相退陣後、ロッキード事件が発覚、「闇将軍」としてなお権力温存を窺う田中としては、ここで「盟友」の大平政権を誕生させる必要性もあったということだった。
田中が大平を「宗教家」と評したのは、本質的に争い事を好まず、常に「歩留り」を低く設定して物を見るなどで、権力抗争には向いてないことを見抜いていたからにほかならなかった。
この総裁選には、幹事長だった大平のほか、時の福田赳夫総理(総裁)が「再選」を目指し、中曽根康弘総務会長、三木(武夫)派からは幹部の河本敏夫通産相が出馬、4人の争いとなった。結果、田中派が一丸となっての遮二無二(しゃにむに)の戦いに出たことにより、大平が勝利を収めることになった。
しかし、この大平政権は田中の強い影響下にあることのほか、この総裁選で政権を引きずり降ろされた福田赳夫の怨念、大平の後の出番を窺う中曽根康弘、クセ者の三木武夫も待ってましたで「反主流」の立場を強め、昭和55(1980)年1月の政権後半の第2次内閣発足後も、凄まじい権力抗争に巻き込まれていった。
第1次政権では、政権運営そのものは順調であった。外交は「日米中」に目配りの“複眼構造”で臨み、サミット(先進国首脳会議)も東京で初めて開催してみせた。一方、内政は財政改善のため「一般消費税」の導入を閣議決定するなど、今日の「消費税」の“原点”を模索した。また、統一地方選では、それまでの12年間の「革新都知事」のイスを、「自公民」3党推薦候補の勝利で奪い返してみせるといった具合だった。
大平はこうした“順風満帆”から、昭和54(1979)年10月、政権基盤のさらなる強化を目指し、衆院の解散・総選挙に打って出たのだった。しかし、これが大きくウラ目に出た。フタを開けると案に相違して自民党は大敗、これを受けた福田、三木、中曽根の3派も、スクラムを組む形で大平政権に反旗を翻すことになったからであった。
3派は、総選挙後の特別国会での首班指名に、総選挙大敗の責任を取れとして大平を担がず、福田赳夫を担いだ。自民党が首班指名で別々の候補に投票するなどということはそれまであり得なかったことで、まさに党分裂寸前の異常事態であった。最終的な衆院本会議での決着は、自民党議員票が大平138票。福田121票でからくも大平の総理「続投」が決まったのだった。大平「続投」の陰に、田中角栄の必死の票取りまとめがあったことは言うまでもなかった。
この首班指名のあと、かろうじて党分裂は避けられたが、自民党内は幹事長や閣僚人事を巡ってモメ続けた。一応のケリがついたのは、総選挙の日から数えて満40日間のゴタゴタだったことから、この権力抗争はそれまでの自民党の抗争では最大の「40日抗争」との名が残っている。
■大平正芳の略歴
明治43(1910)年3月12日、香川県生まれ。東京商科大学(のちの一橋大学)卒業後、大蔵省入省。昭和27(1952)年10月、衆議院議員初当選。昭和53(1978)年12月、大平内閣組織。総理就任時68歳。昭和55(1980)年6月12日、衆参同日選挙のさなかに急性心不全で死去。享年70。
総理大臣歴:第68・69代 1978年12月7日~1980年6月12日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。