大平は初出馬では田舎のジイサン、バアサンにクソ面白くもない財政問題を懸命にしゃべったが、いかにもカタい話すぎて聴衆はシラケるのが常だった。「笑顔だけはステキ」と妙に婦人票が集まって、からくも当選を果たしたのだった。しかし、2回目の選挙では笑顔だけではピンチと見かねた後援会幹部が、親分である池田に直訴、応援に吉田総理を引っ張り出すことに成功した。だが、これがウラ目に出、初出馬以上の苦戦だったがなんとか当選となった。大平後援会幹部の一人が、のちにこう述懐したものだった。
「2回目の選挙はヒドかった。“吉田ワンマン”が観音寺(かんおんじ)の演説会場に応援に入ってくれたのは有難かったが、演壇の傍らにいる大平を指して『私の最も信頼するオオダイラ君であります』とやった。聴衆は『名前も間違えられるくらいだから、大した男じゃないようだ』と受け止める者も少なくなく、こういうハナシが広まってむしろ苦戦となった。大平自身もさすがにショックだったらしく、『オレはこの選挙で落ちたら、政治家は辞めるつもりだ。どうもオレは勝負事には向かんようだなぁ』と、弱気丸出しだった」
しかし、「親分」の池田勇人が総理のイスにすわると、当選4回で第1次池田内閣の官房長官に就任、池田の大平に対する信任は、一層強いものになっていた。
時に、一方で大平は、田中角栄と親交を結んでいた。年齢は大平が8歳年上だが、議員としては田中が先輩で、肝胆相照らす間柄になっていた。
その背景には、田中が5歳の一人息子を病気で失い、大平もまた26歳の長男を難病で亡くしたという“共通項”があった。互いの胸の痛みが、よくわかるということだった。そのうえで、まだクーラーもない当時の木造の議員会館で二人の部屋が隣り同士、よくステテコ姿で互いの部屋に入り込んでは政策論を戦わすなど、紐帯感を育んでいたのである。
やがて、二人は「盟友」関係となる。互いを補完しつつ天下を取ることになるのだが、権力抗争には手練れの田中が、終始、大平に知恵を与え、尻を叩いていた形跡が残っている。
■大平正芳の略歴
明治43(1910)年3月12日、香川県生まれ。東京商科大学(のちの一橋大学)卒業後、大蔵省入省。昭和27(1952)年10月、衆議院議員初当選。昭和53(1978)年12月、大平内閣組織。総理就任時68歳。昭和55(1980)年6月12日、衆参同日選挙のさなかに急性心不全で死去。享年70。
総理大臣歴:第68・69代 1978年12月7日~1980年6月12日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。