アイドルにとっての〈青春の坂道〉は、スキップで駆け上がるばかりではない。時には立ち止まり、息を切らしてしまうこともある。そんな「せつなさ」もまたアイドルの要素とするならば‥‥木之内みどりと岡田奈々は、それぞれを襲った悲運も含めて“僕だけのアイドル”の最高峰に位置した。
「私、こんな失礼な現場では仕事できません!」
主演ドラマである「刑事犬カール」(77年、TBS)の収録中に、そう叫んで立ち去った。あのスレンダーな美少女が、意外なほどの芯の強さを見せたのだ。
それは、70年代のアイドルシーンに唯一無二の存在感を放った木之内みどりのこと。マネジャーだった川岸咨鴻〈ことひろ〉(現浅井企画専務)は、みどりの怒りを今も忘れない。
「共演者の稲葉義男さんに対する助監督の態度があまりにもひどかった。黒澤明の『七人の侍』にも出演している名優に対しての無礼が、みどりは許せなかったんですね。その日の撮影を切り上げて帰ってしまいましたよ」
北海道・小樽出身のみどりは、友人のつきそいという形でアイドルのオーディションに参加。74年5月に「めざめ」で歌手デビューを飾るが、100位内に入ることはできなかった。
川岸は別の事務所にいたみどりに一目ぼれし、ちょうど彼女自身も事務所と反りが合わないと感じていたため、テレビ局を仲介して円満に移籍。ただし、コント55号(萩本欽一・坂上二郎)を中心とした当時の「浅井企画」に女性タレントは皆無で、ましてアイドルを売り出すのは異例のことだった。
「それでも、花が一輪あっていいんじゃないかってね。みどりはことさら前に出るタイプじゃなかったから、いろんなスタッフに愛されていったよ」
そして76年──ロッキード事件で田中角栄が逮捕され、ナディア・コマネチが10点満点を連発した年に、みどりの人気は急騰した。残念ながらヒット曲はなかったものの、雑誌でのグラビア人気は群を抜いて高く、山口百恵や桜田淳子を上回ることもあった。
若者たちばかりではなく、みどりに魅せられた大御所たちも開花に一役を買って出る。人気マンガの「野球狂の詩」(77年)の実写化において、水島新司たっての願いでヒロインの水原勇気に扮した。また脚本家の倉本聰の指名で、人気ドラマ「前略おふくろ様2」(76年)にも出演する。
川岸は娘のような気持ちでみどりを見ていたが、彼らもまた同じだった。
「水島先生は素直に大ファンとおっしゃっていたし、倉本先生には自宅での誕生会にも招かれましたよ」
女優やグラビア展開は順調だが、それでも川岸は、みどりにヒット曲を与えたかった。そのための“軍師”として、かつて沢田研二らを手がけた大輪茂男をディレクターに招いた。
大輪はビジュアルを含めた全権を任されたため、それまでの「はかなげなアイドル」からの脱却を図る。
「たとえば暴走族に囲まれたとして、無抵抗で連れ去られるのではなく、バイクの後ろに乗れよと声をかけられるようなヒロイン。これまでの静かに応援するファンもいいけど、落ちこぼれた連中から声援を受けるような歌にしたかった」
もし、オリコンの30位内に入ったらスタッフ全員でパリ旅行──そんな「ご褒美」まで用意されていたという。
◆アサヒ芸能7/18号より