大輪が用意した作詞・東海林良、作曲・大野克夫、衣裳・早川タケジは「沢田チーム」の面々であり、ロック色の強い楽曲に仕上がった。ジャケットの「白いブラウスに視線を落とした表情」も、これまでにない写真だった。イメージはフランスの歌手であるジェーン・バーキンのロリータ版で、通算11枚目の「横浜いれぶん」(78年2月)が発売される。
「僕の意図したところをみどりは理解してくれた。そしてオリコンでも初めて28位まで上がり、約束どおりみどりも交えてパリ旅行をいただきましたよ」
大輪はロック系の三部作として「無鉄砲」(6月)を、そして「一匹狼(ローン・ウルフ)」(9月)を手がけた。ただし、三作目の発売を前に芸能界を揺るがす大事件が起こった。
〈恋の逃避行──〉
そんな見出しがワイドショーや週刊誌をにぎわせた。既婚者である作曲家・後藤次利の渡米を追い、みどりが仕事を放り出して飛行機に同乗。帰国と同時に会見を開き、そのまま「引退」を発表したのである。
マネジャーの川岸は、35年前の一大事を冷静に振り返る。
「みどりは『無鉄砲』を出して、歌そのままに行動してしまったね‥‥。彼女は純粋な子だったから、ここで引退を撤回させるのは無理だろうと思った。相手の男は『責任を持つ』と言ったけど、すぐには離婚も成立しなかったね」
芸能界における突発引退は、金銭面でも多くの損害を被る。この会見の翌週からオンエアされるはずだったお菓子のCMの違約金や、1年後まで決まっていた仕事のキャンセル分などで「億単位」の金額が消えた。それは浅井企画が倒産しかねない危機だったが、一家の“大将”である萩本欽一が救済に乗り出した。
「事情を聞いた欽ちゃんは、これまで番組に色がつくことを怖れて敬遠していたCMを何本も引き受けてくれた。あれがなかったら会社は存続できなかった」
ただし‥‥萩本も川岸も事務所の社長も、誰1人としてみどりを責めなかった。芸能界的ではない素の魅力に満ちていたのだ。
やがてみどりは後藤との結婚・離婚を経て写真学校に通い、表に顔を出すことはなかったがカメラマンに転身。川岸はこんな「裏の仕事」があったことを明かす。
「ウチから新人がデビューすることになると、みどりに頼んで宣材写真を撮ってもらってたんです」
竹中直人と再婚して2児の母となった今も、青葉のような透明感は変わっていないと川岸は言う。
そんな木之内みどりと同時期に「青春」を象徴したアイドルが岡田奈々だった。歴代の美少女ランキングを挙げれば、70年代は必ず2人が双璧として語られる。
発掘したのは、アイドル文化に一時代を築いた「ボンド企画」の総帥・高杉敬二である。江川ひろしという男性アイドルが岐阜でショーを開催し、担当マネジャーが高熱で倒れたため高杉が代わりに同行──、
「その公演を観に来ていたのが奈々で、一瞬で撃ち抜かれたね。どれだけ人がいても、あのキラキラした大きな瞳の輝きはこっちに飛び込んできたよ」
その日がセーラー服だったため、女学生路線でいこうと高杉は思った。そしてスカウトに応じた奈々は、75年5月に「ひとりごと」でデビューを飾った。