中曽根康弘政権は「戦後政治の総決算」を掲げた本格政権でもあったが、『構え』の大きさの割には実績評価は分かれている。とくに、5年にわたった政権に国民人気は高かったものの、退陣後の永田町とりわけ自民党内の評価は二分されていたものだった。
中曽根は若くして国政にたずさわると、この時点で狙いは天下取りであることを公言するほどの権力志向型政治家である一方、そこへ辿りつくまでの足跡は、「風見鶏」との異名があったほどパフォーマンスに満ちていた。
こうした中曽根のリーダーシップ、「胆力」については、昨年11月29日に101歳で他界したのちの本連載の“特別編”として触れたものだが、ここでは政権としての実績の中からそれを読み取ってみたい。
まず、外交面。中曽根は総理大臣に就任すると、「日米は運命共同体。一蓮托生」「日本を対ソ不沈空母にする」と口にしたが、なるほど対米関係に大きな比重を置いた。時のレーガン大統領とは「ロン」「ヤス」とファースト・ネームで呼び合うなどの親密な関係を築き、サミットの主役も務めるなどで、西側陣営の発言力確保にも腐心した。
しかし、中曽根首相が退陣した後、自民党ベテラン議員からは、次のような声も出たのだった。
「“中曽根外交”は冷戦時代の対ソ戦略をにらみながらのものだったが、米戦略防衛構想(SDI)への研究参加、防衛費の当時の国民総生産(GNP)比1%枠突破を進めたが、目指していた『国際国家としての日本』にはイマイチの成果だった。レーガン米大統領の世界戦略からは、はずれていた。
また、その対応いかんでは日本、ソ連(現・ロシア)、韓国間で抜き差しならぬ不測の事態に発展する危機にあった大韓航空機撃墜事件でも、当時の後藤田正晴官房長官の沈着、冷静な危機管理の力量に助けられた感があった。あのときの中曽根自身のリーダーシップはとなると、見えてこなかった」
こうした外交に比して、内政への評価は厳しいものが多かった。それは例えば、次のような点が指摘された。
前任の鈴木(善幸)政権が手をつけた「第2臨調」を活用、日本電電公社、日本専売公社、日本国有鉄道の3公社の分割民営化、あるいは規制緩和を進め、国債の依存度を下げることなどには、一応は成功した。
しかし、一方で「プラザ合意」によってバブル経済を呼び込み、目指すべき「国際国家としての日本」を経済面で逆に「国際国家」から引きずりおろす結果を招いた。自民党は政権末期に時の伊東正義政調会長のもとで「緊急土地対策」を打ち出し、ようやくバブルにはブレーキがかかったが、時すでに遅かった。
なぜならば、バブル経済により新しい建造物が乱立、旧来の伝統的な建物、街道が破壊され、人心の軽薄さと乱れを招いたからにほかならなかったからであった。
「鋭い歴史感覚による高邁な政治論、教育論、文化論で定評のあった中曽根だったが、内政の評価は低い。言うならば、標榜した大統領型“トップダウン”のリーダーシップに、自民党内が一致して従う態勢になかったことが大きかった。中曽根一流のパフォーマンスに世論は拍手だったが、とかく自民党内の政権運営の評価は低かった」(自民党ベテラン議員)ということである。
しかし、その中曽根は多くの政権が追われるが如くで退陣するのとは異なり、余力を残した形でまずは約5年の政権をまっとうしてみせた。
政権発足当時は、田中角栄の支持を得て総裁選を勝ち上がったことから、その影響をモロに受ける政権として「田中曽根内閣」「直角内閣」などともヤユされた。しかし、政権の後半に田中が病魔に倒れたことで、“自立”した政権の片鱗を見せ始めた。
先に触れたように、バブル経済へのブレーキに、田中の進めた政策にブレーキをかけるような「緊急土地対策」を持ち出したのも好例と言えたのだった。
■中曽根康弘の略歴
大正7(1918)年5月27日、群馬県生まれ。東京帝国大学法学部から内務省入省。海軍主計主査。警視庁警視などを経て退職。昭和22(1947)年民主党から衆議院議員初当選。昭和57(1982)年11月、内閣組織。総理就任時64歳。令和元(2019)年11月29日老衰のため死去。享年101。
総理大臣歴:第71~73代 1982年11月27日~1987年11月6日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。