松田聖子の登場以来、アイドル文化にいくつもの波が打ち寄せた80年代。やがて、どこか「アマチュアの集団化」していく風潮はあったが、使命を帯びた「孤高のアイドル」も登場する。斉藤由貴と浅香唯の2人は、歌においても演技においても、その身ひとつで多くの者を魅了していった。
〈スケバンまで張ったこの麻宮サキが、何の因果かマッポの手先。だがな、てめえらみてえに魂まで薄汚れちゃいねえんだよ!〉
あどけない顔立ちから放つ鋭い啖呵は、アイドルドラマの常識を大きく変えた。デビュー2年目の斉藤由貴が主演で大ヒットした「スケバン刑事」(85年、フジテレビ)は、以降も主役を変えてシリーズを重ねた。第2作に南野陽子、そして完結篇では浅香唯が主演を務め、本格派アイドルの登竜門となった。
その先鞭をつけた由貴は、東宝の創立50周年を記念した「第1回東宝シンデレラオーディション」(84年)に応募。沢口靖子に次ぐ準グランプリを獲得し、芸能界の門をくぐる。
由貴の1年後に「東宝芸能」に入社し、後に芸能部チーフマネジャーとなった松野行秀が言う。
「ウチは女優がメインの会社だったけど、由貴ちゃんは歌でも脚光を浴びた。それは東宝芸能にとっても活性化される材料となりましたね。ただ、それだけスケジュールはハードになるんだけど、彼女は素直で、わがままを言わなかった」
多くの女優を見てきた松野の目にも、1作ごとに表情の違う由貴は天才的に見えた。ミステリアスな部分だけでなく、朝ドラのヒロインとなった「はね駒」では庶民的なイメージを打ち出した。
それは、岡田有希子がビルから飛び降り、チェルノブイリで原子力発電所が爆発した86年のこと──。不穏な世相ではあったが、由貴のはつらつとした笑顔は、平均視聴率41.7%の絶大な支持を集めた。
松野は由貴が全国区の顔になったことに安堵しつつ、積極的にドラマの企画を売り込んだ。
「実現したもので嬉しかったのは、91年の元旦にオンエアされた『和宮様御留』(テレビ朝日)でしたね。お正月特番の主演という大役をみごとにこなしてくれました」
そんな由貴が最初に注目されたのは、CMの「青春という名のラーメン」(84年)だった。うるんだ大きな瞳と、ぽてりとした唇で見つめる表情は、たちまち「あの子、誰?」と話題を呼ぶ。このバックに流れていたのが、デビュー曲となる「卒業」(85年2月)である。
ただし、いわゆるCMソングではなかったとディレクターを務めた長岡和弘は言う。
「さすがにラーメンのための曲作りはできない。こちらはデビュー曲をとにかくいいものにしたいと懸命で、その結果、彼女のCMに使いたいという形になりました」
かつて甲斐バンドのベーシストだった長岡は、ディレクターに転身して石川ひとみや中島みゆき、後にはチャゲ&飛鳥も手掛けるが、デビュー曲から関わった数少ない例が由貴だった。シングルの発売日が決まると、同時期に尾崎豊、菊池桃子、倉沢淳美が同じ「卒業」のタイトルで“競作”になることがわかったが──、
「レコード会社内で心配する声もありましたが、僕は『まったく問題ありません』と答えましたよ」
それほど入魂の1曲だったのである。
◆アサヒ芸能7/25号より