宇野は総理としては失態で幕を降ろしたが、一方で、「文人政治家」としては政界では聞こえていた。
シベリア抑留当時の体験を書いた「ダモイ・トウキョウ」ほか、「中山道守山宿」といった十指に余る著作もある“作家”の一方、自作句集がある“俳人”でもあったのだった。
また、ピアノ、ハーモニカは玄人はだしで、外相時代、外国賓客に自らハーモニカを吹いてサービス、これは好評であった。さらに、書もよくし、カラオケもなかなかうまかった。
大正生まれ人間としてはマレな“マルチ人間”の多趣味はまだあり、麻雀、ダンス、剣道は正真正銘の五段、人形の収集はじつに2万5000体、自ら器用に郷土人形の制作もやるといった器用さだった。逆に言えば、この「器用さ」が命取りになったとも言えたのだった。
振り返って、宇野は総理になる前「演説の達人」との声が高かった。なるほど、総理になった直後の所信表明演説は「世界に貢献する日本」を目指すとした格調の高さが評価され、その中身は随所に「文人政治家」らしく教養を感じさせるものがあった。
この所信表明演説があったその日の夜のテレビ朝日「ニュースステーション」で司会の久米宏が演説を評価し、「この政権は大化けする可能性がある」と唸ったものでもあった。芸者とのスキャンダルは、その直後に一挙に広まったというものだった。
俳句の号は、「犂子(れいし)」。その句集「宇野犂子集」には、神楽坂芸者との逢瀬をホーフツさせるかのような、次のような粋な“三名句”が散見できる。
縁切りの 灰文字かきて 日の永き
白上布(しろじょうふ) つっころばしに 痴話多し
逃げ水に 女騙せし 彼奴(きやつ)憎し
「滋賀県のことなら何でも分かる」としていた宇野は、田中角栄が幹事長時、参院選の地元候補の票を読み間違って“大目玉”をくらったことがあった。才におぼれ「水漏れ」のあった人物であった。
加えるなら、惜しむらく、トップリーダーとしてはいささか「器用貧乏」過ぎたと言えたのだった。
■宇野宗佑の略歴
大正11(1922)年8月27日、滋賀県生まれ。学徒出陣、神戸商大を中退。昭和35(1960)年11月、衆議院議員初当選。平成元(1989)年6月、竹下退陣を受けて自民党総裁、内閣組織。総理就任時66歳。平成10(1998)年5月19日、75歳で死去。
総理大臣歴:第75代 1989年6月3日~1989年8月10日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。