「師匠」が「受け」と「待ち」、あるいは「我慢」「辛抱」まずありきの合意形成型リーダーシップで与野党ににらみを利かせていた竹下登元総理だっただけに、小渕恵三もその政治姿勢を踏襲していた。
会話のやりとり一つ取っても、前任総理の橋本龍太郎のようにスパッと切り返すことはなく、時には何を言わんとしているのか分からないときもある。筆者は総理になる前から小渕と親しくさせて頂いていたが、度々、こうした場面に直面したものだった。なるほど竹下は「言語明瞭、意味不明瞭」の“幻惑会話”で相手を翻弄していたが、これも小渕は見習っていたかのようだった。
また、自ら「オレは“ボキャ貧”だからな。ボキャブラリーが貧困だから、いい言葉がなかなか出て来ないのだ。相手に対しては、『お疲れさま』の一言だな」と口にしていたが、これも本音半分、はぐらかし半分に聞こえたものだった。
「オレは“真空総理”だから、対立することがない。元々、考え方がないから、対立しないということだ。無、空ということだよ」
この小渕の言葉は、小渕が総理のとき、会期延長を巡って官房長官との対立があるのではと記者会見で問われたときの答弁だったが、この「真空総理」とはその少し前に中曽根康弘元総理が雑誌で使ったもので、これを逆手に取って“お返し”したものであった。
小渕と親しかった政治部記者の言葉が残っている。
「総理になった小渕に対し、海外メディアからは強力なリーダーシップを感じさせないから『冷めたピザ』と言われ、直言で知られた田中真紀子(元外相)からは『凡人』とも言われたが、こうしたことはじつは小渕にとっては痛くも痒くもなかった。元々、小渕は『謙虚であれ、誠実であれ、柔軟であれ』の“三あれ主義”を標榜、実践もしてきた男だから、何でも受け入れる器量があった。相手を立て自分が出しゃばらないことは、相手が話し合いの余地を残してくれることで、決断の際の選択肢が増えるというメリットになるとの考えだった。“竹下手法”を徹底的に踏襲していたのです」
なるほど、強力なリーダーシップを打ち出すでなし、何やらキレ味も乏しい小渕内閣発足時の支持率は、わずか20%程度と先行きが懸念されていた。しかし、意外や小渕は内政・外交とも、次々と大胆な決断力を発揮していくことになるのである。
内政では、折からの不況下、迫られている「財政構造改革」を思い切ってタナ上げし、政策運営の照準を景気回復一本に定めて成功させた。
外交では、さらに大胆な決断力を次々に発揮した。韓国とは金大中大統領を招いて「日韓共同宣言」を発表、そのなかで戦後50年の「村山(富市総理)談話」を踏まえ、改めて過去の植民地支配への「痛切な反省」「心からのお詫び」を明記した。しかし、その一方で金大統領からは、今後は「歴史問題」を蒸し返さないための約束を取りつけたものだった。
また、中国の江沢民国家主席の来日では、共同宣言に江沢民が「歴史認識」「台湾問題」のより踏み込んだ文言を入れることを強く要求したが、文書化には断固、拒否を貫いたといった具合だった。
さらには、一方で小沢一郎率いる自由党を連立に組み入れてまず「自自」連立政権を、その後これに公明党との間で閣外協力を取り付けて「自自公」連立政権を成立させている。これにより国会運営も順調に推移、最大派閥・小渕派の結束もあいまって、政権基盤は一層強まったものだった。
「自自公」連立時には内閣支持率も40%台まで上昇、政権発足直後は厳しい評価だった海外メディアも、「冷めたピザ」に手のヒラを返して報じたものであった。
「最近は(ピザに)風味が出てきたようだ」
■小渕恵三の略歴
昭和12(1937)年6月25日、群馬県生まれ。早稲田大学文学部を経て、世界一周の旅に出る。昭和38(1963)年10月、26歳で衆議院議員初当選。平成10(1998)年7月、小渕内閣組織。総理就任時61歳。在任中の平成12(2000)年5月14日、入院先で死去。享年62。
総理大臣歴:第84代 1998年7月30日~2000年4月5日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。