森の持ち前の言葉の軽さは、致命的であった。神道政治連盟国会議員懇談会での「神の国」発言、総選挙を前にしての「(国民が)関心がないと寝てしまってくれればいい」との“投票棄権要請”発言等々、思慮を欠いたものが多かった。
さらには、ハワイ沖での水産高校実習船「えひめ丸」と米原子力潜水艦の衝突・沈没事故に際し、折からゴルフ場にいた森は一報を受けたもののすぐ官邸に戻ることなく、記者団から危機管理対応の“不備”を問われるという失態も演じた。さらにマズかったのは、危機管理を問われたその答えに「(あれは)事故でしょ」とやり、これが退陣へのダメを押したということになったのである。
かく実績を残せず、失言、放言の類いのみ色濃く残った森政権ではあったが、退陣後に以後の政権の“産婆役”として存在感を示したことはあまり知られていない。
小泉純一郎、安倍晋三(第一次)、福田康夫、麻生太郎の各政権誕生を演出、「後見人」的立場で存在感を見せつけたということだった。もっとも、安倍、福田、麻生の政権が「短命」を余儀なくされたことで、逆に「A級戦犯」との声もないではなかった。
一方、若き日の森は、早稲田大学に入学と同時にラグビー部に入ったスポーツマンであった。政治より、ラグビーであった。とくに「ワセダのラグビー」への憧れが強かったが、わずか4カ月で“胃カタル”のため退部。その後、雄弁会(弁論部)に転じたのだった。
父親が石川県の町長でもあったことから、政治の血がうずいたようであった。当時の雄弁会は「将来は政治家」を夢見る者がほとんどで、先輩には青木幹雄、小渕恵三、海部俊樹(元総理)、渡部恒三(元衆院副議長)、藤波孝生(元官房長官)ら、のちに政界の最前線に立つ面々が蝟集(いしゅう)していたのである。
じつは、筆者もこの雄弁会に籍を置いたことがあり、先輩から「青木さんは親分肌、何事にも生真面目だった小渕さん、豪放だった森さん」との“評”を耳にしていたものだった。そうしたラインが、やがて青木が主導、生まれたのが森政権ということでもあったのである。
その森は、自らの人生観を、好きなラグビーから見るのが好きなようだ。次のように言っている。
「楕円球のラグビーボールは、時にとんでもない方向を転々とする。リバウンドしたボールが自分の手元に返る確率は、百分の一以下とも言われている。まさに、人生とはどのように展開していくのか、分からないのに似ている。私の人生もまた、ラグビーボールそのものだと思っている」
宇野宗佑から九人目の総理の森まで、残念ながらその政権は自らの力で政権に就いたのでなく、パワーバランスの中で誕生した。日本の政治の空白化の中に、名をとどめていると言って過言ではない。
そうした見方を払拭するかのように、森はいま、来年への開催延長が決まった東京五輪・パラの組織委員会トップとしてにらみを利かせている。
■森喜朗の略歴
昭和12(1937)年7月14日、石川県生まれ。早稲田大学商学部卒業後、産経新聞社入社。昭和44(1969)年12月、無所属で衆議院議員初当選。平成12(2000)年4月、内閣組織。総理就任時62歳。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長。現在82歳。
総理大臣歴:第85・86代 2000年4月5日~2001年4月26日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。