役者になる気などサラサラなかった
赤井の俳優デビューは映画「どついたるねん」(89年/ムービーギャング)。試合中に浴びたパンチで生死をさまよい、引退に追い込まれたボクサーが再起をかけるという、赤井の自伝をもとにした物語である。
「僕が相手選手のパンチで急性硬膜下血腫になり、開頭手術を受けたのは世界タイトルマッチの前哨戦でした。2カ月入院し、奇跡的に助かりましたが、もちろん、ボクサーとしては終わり。退院後はそれまでお世話になった人たちのところへ挨拶に行ってました。母校の近畿大学が嘱託職員として雇ってくれたので、ボクシング部のコーチをしていましたが、なぜか寂しくて毎日酒を飲んでいましたね。そんな時に出版社が『自伝を書かないか』と声をかけてくれた。で、それが阪本(順治)監督の目に留まり、映画化されることになったんです」
戸惑いながらも足を踏み入れた演技の世界。しかし、当初は役者を続けていく気はサラサラなかった。
「とにかく撮影がハードでキツいんですよ。看板を殴ってうっぷんを晴らすシーンがあったんですが、『看板は柔らかいから一度殴ったらへこんで使い物にならない。NGは許されない一発撮りだ。とにかくOKを出すまで殴り続けろ』と言われたんです。で、本番になって殴ってみたら、これが硬い、硬い(笑)。一発で拳から血が出て、みるみるうちに看板が血だらけ。クランクアップの日には、これで明日から撮影に行かなくて済むと、心底ホッとしましたね」
ところが、赤井は完成した映画に目をみはる。
「あ、あのシーンはこういうふうに映っとったのか。だから監督は現場でああいうふうに指示したんや。だったら、オレはもっとこうすればよかった。そんな発見が次々とあって、この仕事はおもしろいぞと。もっと、やってみたいと思うようになったんです」
映画が公開されるや口コミで人気に火がつき、その年のブルーリボン賞作品賞を受賞。しかし、映画がクランクアップしてから公開され、話題になるまでにはタイムラグがある。試写会で役者に目覚めた赤井だったが、その後、俳優としてドラマに出演するまでの約2年間は、ほとんど仕事がない状態が続いた。
「でも、その頃は俳優になるという目標があったから、ツラいとは思わなかったですね。それならボクサー時代のほうがもっとツラいことがあった。デビューして12連続KOすると人気が出て、テレビ局やスポンサーがつき、ジムに練習生もたくさん入って金銭的にすごく潤ってきた。ただ当時、僕のファイトマネーは1000万と報道されましたが、そんな金額、一度ももらったことありません。もらったのは僕の試合のチケット。3000円の席を3000枚売ってこいと。実は裏でものすごい搾取があったんです」
そのタイミングで巡ってきたのが大ケガをすることになる試合。練習はほとんどしておらず、結果は目に見えていた。
「今思えばやる必要のない試合でした。結局、ボクシングができない体になってしまったわけですから。でも、大ケガをしたから本が出せて、映画にも出て、今につながっている。そう考えると、あの時は人生最大のピンチだったと同時に、チャンスでもあったんやなと。今、総監督を務めている近畿大学ボクシング部の学生たちにもそう話しています。何より、ボクシングを通じていろんな人からもらった愛情を、今後は恩返ししていきたい。ボクシング愛の倍返しですわ(笑)。まずは、近大ボクシング部を昔のように強くすることが今の大きな夢です」