09-10シーズンのラストとなった世界選手権は、キム・ヨナがSPでまさかの7位と出遅れ、浅田は3度目の女王に輝く。13回目の直接対決で一矢を報い、4年後のソチ五輪に早くも照準をしぼっていた。スポーツ誌編集者が振り返る。
「浅田がすぐに新コーチを探し始めたことからも危機感がうかがえた。タラソワとは言語の壁があったので、5月から本田武史らを育てた長久保裕コーチに教わり、夏には名伯楽・佐藤信夫コーチに打診。母・匡子さんの熱意もあって9月から練習がスタートした」
巻き返しを図る10-11シーズン、フリーのプログラムは6種類の3回転ジャンプを全て跳ぶというもので、3Aの申し子だけに許された高難度の演技構成となった。
しかし、結果は惨憺たるもので、初戦のジャパンオープンで2度の転倒に涙し、続く11月のGPシリーズNHK杯では、シニアになって自己最低の8位となり、続くフランス大会でも5位に沈む。ここまで3Aを一度も成功させることができず、GPファイナル進出を逃してしまったのだった。
「世界選手権の切符のかかった12月の全日本選手権前、佐藤コーチから『3Aでなく2Aでいこう』と進言されたが、浅田は判断を保留し、結局、SP直前練習で3Aを決めたことで許しをもらった。翌日のFSには3Aにチャレンジし、回転不足ながら着氷。今季最高の2位となった。実は会場には、母・匡子さんの姿があった。浅田にとって3Aはモチベーションであり、母と二人三脚で歩んできたスケート人生の全てでもあるんでしょう。バンクーバー五輪後、娘と距離を置き、練習にも姿を見せていなかった母の姿が、3A成功を後押ししていたのかもしれない」(前出・編集者)
姉の舞は、真央と母の関係についてインタビューでこう答えている。
「真央は小さい頃からお母さんにホメてもらいたくて頑張ってきた。お母さんがホメてくれたから、満足できたという部分もあったと思います」
浅田の母・匡子さんは、12歳の時に父親が他界、20歳の時に母親も亡くしている。匡子さんはこう語っていたものだ。
「姉と2人で苦労してきたの。だから娘たちに好きなことをやらせてあげたいという気持ちが強いのかな。『イヤだったら、いつでもやめていいんだよ』って言ってきたわね」
次女の卓越した才能を家族で伸ばし、その結実が3Aだった。しかし皮肉にも、3Aへの執念がLzの修正に影を落とした。