テリー 本を読むと、銀行に行くことはよしとしなかったみたいですね。
小椋 だから、銀行にいながら小説を書いてみたり、どなたかの舞台の演出台本を書いてみたり、絵を描いてみたり、いろんなことをやってました。何をやってもダメでしたけどね。たまたま歌作りで出会いに恵まれて、歌を発表する機会を与えられました。
テリー いいディレクターに出会いましたよね。
小椋 声を聴いて、僕を探してきたんです。もう僕は銀行に入って、結婚もして25歳になってましたけど、まだ少年だと勘違いしたみたいで。
テリー 美声ですからね。
小椋 それで彼は会った途端、「君の顔じゃちょっと無理だから売り出すのはやめよう」「君が作ってる歌を聴かせろ」なんて言って、歌を聴かせたら「君はいらないから作品だけくれ」って言ったんですよ。
テリー 失礼だな(笑)。
小椋 それで、いろんな新劇の劇団を回ったりして、僕の歌を歌って売り出せる美少年探しを始めたんですよ。でも、1年ぐらい探してもなかなかふさわしい歌い手が見つからない。その中には、俳優の渡辺篤史さんもいましたよ。
テリー へぇ~、そうなんですか。渡辺篤史さん、子役でしたからね。
小椋 それで最後の最後に出てきたんですよ。聞いたら歌がうまくてね。僕が「絶対この人がいい」って言ったのが井上陽水君。そしたら陽水君、自分で歌を作ってましてね。僕の歌なんか歌わなくても本人の歌でいいじゃないかっていう話で、そのディレクターはまず陽水君を売り出したんです。もう「傘がない」や「人生が二度あれば」があってね。
テリー 「傘がない」は衝撃的でしたよね。
小椋 案の定、陽水君が出たら、すぐ売れましたね。それで陽水君が売れた後、僕は銀行から派遣されてアメリカへ留学することになって、結局「歌手は見つからなかったけど、とりあえず君の仮歌でレコーディングだけしていくか」って、8曲だけポリドールさんでレコーディングしたんですね。
テリー それがレコードになって人気に火がついた。
小椋 いや、つかないんですよ。レコードになるかは重役会にかけなきゃいけないんですけど、当時のポリドールの重役連は、よその会社からの天下りのおじいちゃんばっかりでね。僕のテスト盤をかけたら、みんな眠り始めちゃったらしいんですよ。
テリー あらら(笑)。
小椋 それと最後に僕の履歴書が回ってきて「25歳の銀行員で、今日本にいないのに売れるわけがない」ってボツになっちゃったんですよ。だから、本来なら僕なんかは世の中に出なかったはずなんです。
テリー そうだったんだ。
小椋 ところが、そのディレクターが「小椋佳の歌が評価できない重役連はやめちまえ」なんていう運動を社内で起こしたんですね。
テリー その人も血気盛んだなぁ。
小椋 そうしたら、彼は大阪の営業所に飛ばされちゃったんですけど、彼にも出会いがありましてね。映画「八甲田山」の森谷司郎監督に僕のお蔵入りになったテープを聴かせたら「これいいじゃないか。今度の映画(「動乱」)にこの小椋佳の歌を全部流すから」という話になったらしいです。
テリー 歌にそれだけの力があったんですね。
小椋 それで映画が封切られた後にLPが発売されて、まぁ一気にじゃないけど、ジワジワ売れて。そういう巡り合わせがあって、今に至るんですね。