ロシアのウクライナ侵攻が世界中の注目を集めている。その中でロシアの隣国である日本の立ち位置は難しい。もし、ある人物が現代の日本に生きていたら、大きな役割を演じていただろう。増田甲斎である。
甲斎は幕末から明治時代の人物で、ウラジーミル・ヨーシフォヴィチ・ヤマートフというロシア名を持つ。当時のロシア皇帝からスタニスラフ三等勲章と年金1000ルーブルを下賜されており、現在なら親ロシアの人間として糾弾されたり、スパイ疑惑をかけられたりしたかもしれない。
掛川藩士の次男として生まれた甲斎がロシアと関係を持つようになったのは、国禁を犯して逃亡者になったからである。脱藩して江戸に出てきてからは博徒の頭目となり、何度も投獄された。だが、甲斎が犯したのは、死罪を免れない重罪だった。
過去を悔い改めた甲斎は出家して雲水となり、伊豆に向かった。そこで戸田に滞在していた後の箱館ロシア領事となったロシア人のヨシフ・ゴシケーヴィチと交際がスタート。関係を深めた甲斎は、なんとゴシケーヴィチに日本語の辞書を貸した。これは当時、完全な法律違反行為、国禁だ。
コトが露見し逮捕されたが脱出。ロシア人宿舎に逃げ込み、そのまま停泊していた商船に乗り込んで、ゴシケーヴィチとともにロシアへ逃亡を試みた。当時はクリミア戦争中で、ロシアと戦争状態にあったイギリス船に捕らえられたが、これが人生のターニングポイントになった。
その時にゴシケーヴィチの助手として「和魯通言比考」という1万6000万語を収録した日露事典を執筆したからである。その縁でロシアに渡り、ロシア外務省の役人、アジア局九等官通訳となった。1870年にはペテルブルク大学の日本語の講師となり、日本政府の使節を1862年、1866年、1873年の3度担っている。
ロシア生活が18年にも及んだ1873年、帰国のチャンスが巡ってくる。モスクワを訪れていた岩倉具視から「新政府は脱国の罪を問う意思はない」と伝えられたからである。ロシア政府がそれまでの功績を認め、帰国の費用も負担するという厚遇ぶりだったという。
帰国後は明治政府から芝の増上寺の隅に住居を与えられ、政治家やロシア語を学ぶ学生などに、私塾のような形で生きたロシア情報を伝え、1885年、65歳でその生涯を閉じた。墓所は港区・高輪の源昌寺にある(写真)。
(道嶋慶)