昨今の改編期のように「NG大賞」は存在しない。ドラマとバラエティの棲み分けができていたのが70年代であり、役者たちが安易に“素顔”を見せることはなかった。
百恵より2つ年上の秋野は、役柄では敵対しても、何かと波長が合ったという。
「ただ楽屋で百恵ちゃんと楽しそうに話していたところを、たしか『週刊平凡』のカメラマンに撮られてしまったんです。どうにか掲載を控えてもらうように、大映テレビさんが必死にお願いしていました」
今だから話せるが‥‥と前置きして秋野は言う。殺人的スケジュールだった百恵に合わせ、深夜や早朝にロケが始まることも珍しくなかった。それでも若かったせいか、そこから2人で遊びに行くことも多かったという。
「芸能人しか入れないスナックが渋谷にありまして、勝新太郎さんや石原裕次郎さんがいつもいらしてた。そこに百恵ちゃんと2人で行くようになって、でも私たちは一番のペーペーだから、よく洗い場を手伝っていましたよ」
秋野は大映ドラマに重宝され、三姉妹のバレリーナ役だった「赤い激突」(78年)や、堀ちえみ主演でヒットした「スチュワーデス物語」(83年)にも顔を見せている。VTRではなく、フィルムが主流だった時代の演技を学んだことは貴重な体験だった。
秋野と同じようにシリーズで悪役が多かったのは、前田吟である。国民的な映画の「男はつらいよ」で知られる善良な役どころとは一変し、逃亡犯などの役をこなした。
「役柄も『寅さん』とは違うけど、芝居の仕方もまるで違う。大映ドラマでは、テンションを上げてセリフを言うから、そのまま『男はつらいよ』の撮影に入ると、山田洋次監督に『大きな声を出さなくても聞こえますよ』って注意されるから」
赤いシリーズはTBSの金曜9時枠だが、もともとは松竹制作、田宮二郎主演の「白いシリーズ」の牙城だった。やがて「白」と「赤」が交互にオンエアされるが、前田は「白」のほうの出演が先だった。
「あれは大人のラブロマンスだし、何より松竹と大映テレビでは撮り方もムードも違う。正直に言うと『赤』は、殴り合い、つかみ合い、ののしり合いのドラマだったね」
前田は「赤い運命」でシリーズに初登場し、百恵の引退記念作となった「赤い死線」(80年)にも出演。犯人役が多かったことで子供たちがイジメの対象となりかねない事態もあったが、それでも前田は感謝してやまない。
「フィルムで撮っている『テレビ映画』は、VTRのものより倍近くギャラがいい。これがあったおかげで4人の息子たちを育てられたと思っているよ」
宇津井健が突然、バレエを踊り出すなど、シリーズきっての怪作とされる「赤い激突」には、やはり前田もふんどし一丁で踊る場面が出てくる。今にして思えば、あそこまで振り切った役をやれたことは自分の財産になったと言う。