NHK大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康を大激怒させ、鋸挽(のこびき)の刑罰に処された武士がいる。大賀弥四郎という。
武士に対する刑罰といえば、体面を重んじて切腹の沙汰が下ることが多い。ところが極刑中の極刑に、鋸挽がある。
江戸時代なら、土の中に埋めた箱に罪人を入れ、首だけを地上へと出させる。そして、隣には竹鋸と大鋸を置いて通行人に見物させ、その後に磔(はりつけ)にするという晒し刑だった。
だが戦国時代は、実際に通行人に罪人の首を竹製の鋸で挽かせていたという。竹鋸で首を挽かれても簡単に死には至らず、少しでも苦痛を長引かせてやろうという残酷な刑罰だ。織田信長を火縄銃で狙撃した杉谷善住坊が、この鋸挽の刑になったことで知られている。
激しい性格の信長らしい刑罰ともいえるが、狸親父と呼ばれ、温厚なイメージの強い家康には似つかわしくない。よほど感情が抑えられないほど激怒したということだ。
その相手が大賀弥四郎だった。弥四郎は当初、「中間」という、武士ともいえない身分だった。だが生まれ持った能力が高く、計算も得意だったため、会計・租税に関する役職を任され、三河奥郡二十余カ村の代官へと出世。さらに、家康の嫡男・信康の御用も務めることになった。
ところが権力を持つにつれ、その態度が尊大になり、おごり高ぶるようになるのは、いつの時代も同じ。傍若無人な振る舞いはいつしか家康の耳に入り、弥四郎は捕らえられて、家財没収の憂き目に遭う。
この没収された家財の中に1通の書状が含まれていたことが、大騒動へと発展する。書状の相手はなんと、徳川とは敵対関係にあった甲斐の武田で、弥四郎の謀反を証明するものだった。
弥四郎は家康の正妻・築山御前や岡崎城主の信康をたぶらかし、岡崎城主になることを条件に、武田勝頼軍を岡崎城に引き入れようとする計画を練っていたのである。
さすがの家康もキレて、弥四郎の妻子5人を磔に。弥四郎本人は引き廻しの上、生き埋めにして、往来する者に竹の鋸で首を挽かせたという。弥四郎は苦しみながら、7日後にようやく死んだと伝わっている。
(道嶋慶)