奥平昌能(おくだいら・まさよし)という、江戸前期の大名がいる。江戸幕府の初代将軍・徳川家康の玄孫という血筋ながら、粗暴な性格ゆえに「荒大膳」と陰口を叩かれていた人物で、下野国宇都宮藩主から、のちに出羽国山形藩主となった。
昌能は数々の大チョンボをしでかしている。その最たるものが、のちに赤穂義士の討ち入り、高田馬場の仇討と並び、江戸の三大仇討とされる「浄瑠璃坂の仇討」の原因を作った依怙贔屓(えこひいき)だ。
昌能の父である宇都宮藩主・奥平忠昌が寛文8年(1668年)に死去したため、同年3月2日(1663年4月13日)、下野興禅寺(現・宇都宮市内)で法要が営まれることになった。
この時、家臣の奥平内蔵允と奥平隼人が、ささいなことから口論となった。彼らは、互いの母が実の姉妹といういとこ同士だったが、普段から仲が悪かった。たび重なる罵倒の応酬で、最初に刀を抜いたのは内蔵允だった。
だが剣術の腕前は、一枚も二枚も隼人が上。内蔵允は返り討ちとなり、刀傷を負ったという。
双方はそれぞれの親戚宅に預けられたが、満座の恥をかいたことでその夜、内蔵允は切腹して果てた。
この時代、ケンカ両成敗が原則だ。内蔵允が切腹したのであれば、隼人も切腹しなくてはならない。
だが同年9月2日(10月7日)、隼人に下った処分は切腹ではなく、改易。しかも、江戸の旗本・大久保保右衛門家に身を寄せる隼人には、護衛まで付いた。一方で、当主が切腹した内蔵允家は嫡子・権八に加え、いとこの伝蔵正長まで家禄を没収されて、藩から即日の退去追処分となったのである。
この処分に、権八に同情する藩士が続出。権八の仇討の助太刀をするため、40人以上が浪人となったという。その中には1200石の夏目勘解由や、同じ1200石の兵藤玄蕃という藩の重臣も含まれていた。
そして雌伏4年。寛文12年2月3日(1672年3月2日)未明、隼人が当時、身を寄せていた江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠・戸田七之助宅に討ち入り。権八は牛込御門前で隼人と対決し、見事に父親の無念を晴らしたのである。
権八は仇討事件の首謀者として伊豆大島へ流罪となったが、6年後、あの千姫=天寿院の13回忌追善法要に伴う恩赦により、彦根藩井伊家に召し抱えられた。奥平昌能の依怙贔屓は、後の世まで語り次がれる大騒動となったのである。
(道嶋慶)